世捨て人の暮らしぶり

自営業でコピーライターやってるよ。東京と神奈川と静岡に住んでるよ。ドラムを叩くよ。面白そうな書き仕事なら世界中どこでも行くよ。Twitterは(@mush_me)、Instagramは(chappy__0927)、その他の連絡は→shotasato4@gmail.com だ!

【まとめて読めるやつ】バンドマンシリーズ

15年ほど前にガチのバンドマンをやっていた時のことを書いてみました。ライブハウス、借金、裏切り、女、貧困、世捨て人。甘くて美味しい話を0.5割フィクションでたくさん詰め込みましたので、暇で仕方がないという方はお暇なときのご覧ください!

 

※このページは印刷用としても使えます

※随時編集を行っているため突如サブストーリーが追加されたり消えたりします

※誤字脱字あったらごめんな!

 

では、どうぞ!

 

 

 

 

立派なフリーターになれるまで

 

春の穏やかな朝日に舌を打ち目覚めたのは午前7時。僕は鏡を見ずともわかるしかめっ面で適当に身支度を済ませ、彼女から入学祝いとして買ってもらった水色のリュックを背負って家を出た。

 

原付にまたがり、枯れ落ちた桜を巻き上げ中央線の阿佐ヶ谷へ。そこから電車に乗り換え立川、さらにモノレールで山奥へと進む。仕上げは学習意欲をそぎ取るのに十分な山道を20分ほど歩く。汗が吹き出した頃大学に着いた。

 

「やりたいことがないのだから自動的にフリーターですわな」と高校の進路相談で教師のため息を煽っていた僕が大学進学を決めたのは、学校をサボろうとも文句一つ言ったことのないほど寛大だった両親の意外な一言だ。

 

「やることがないなら大学に行け!」と動物的とも言える力強い目つきで言い放ったその様から、僕は自らが危機的状況にあるのではとはじめて疑いを持ったのだ。

 

家の本棚に「どうしたら子どもはやる気になるのか」「無気力な子どもの接し方」といった教育関連の書籍が増えていることに違和感はあったが、僕は「アレは弟のことだ」と見て見ぬふりをしていた。

 

将来の夢はおろか魅力に思える職業すらない。それを理由に学校にはほどんど行かなかった。高校時代の成績は学年最下位から2番目。悪事に手を染める度胸はないが夜遊びから帰っては昼まで眠り、モソモソと冷蔵庫を漁ってはまたフラフラと出かける。親はそれを自堕落と呼んだ。

 

僕は「脳のGOサインに従って生きることを自堕落というのなら何に従うべきか教えてくれ」などと安い屁理屈で最大限の抵抗を見せた。しかし、親を説得するほどの目標や夢といった希望的観測は持ち合わせていなかった。

 

これ以上借りる先がないくらいに借金まみれだった親に、高級車1台分の授業料を上乗せすることに抵抗はあったが、その剣幕に押される格好で僕は渋々大学進学を受け入れた。

 

経済学部に進んだのは友人から「名前が書ければ入れるよ」と聞いたからであって、特段興味があったわけではない。

 

入学早々、参考書として買わされた経済学の父アダム・スミスの「国富論」は、時給戦士しか経験のない18歳の僕にとって暴力以外の何ものでもなく、1ページ目の文脈から勝手に想像した髭紳士アダム・スミスは「ここは君の来る場所ではない」と言わんばかりのいぶかしげな顔で僕を見ていた。

 

人が持つ集中力の持続可能時間ギリギリにあたる90分の講義は退屈を極めた。当然ながら講義の内容に興味は持てず、社会に出て役立つことは何一つないように思えるからなおさらだ。

 

いつしか僕は「今日の内容、非常に興味深いですね」とわかってる風の顔を作って教授に媚びを売りながら、その場に居る可愛らしい女の子との出会いから結婚、老後までの脳内シミュレーションをたしなむことが日課になった。

 

それに飽きたら僕より2つ年上でチワワ似の彼女、裕子を影武者として帯同させた。高校を卒業してすぐに地元のキャバクラで働きはじめた裕子は、黒目の大きさが浜崎あゆみにそっくりな少し天然の入った女の子だ。裕子は「え〜、キャンパスライフなんて最高じゃん!」と喜んで影武者を買って出てくれた。

 

裕子は大学へ行く日になると憧れのキャンパスライフを楽しむかのようにセレブ女子大生が好みそうな襟のキリッとした白いブラウスを着て淡い色のカーディガンを羽織る。しかし、僕はその安易な浮かれ具合が癪にさわったので、昼飯はミートソースもしくはカレーうどんを強引に食べさせた。

 

講義は二人で出て僕は寝る、裕子はノートを取って出欠表に名前を記入するという役割分担で攻めた。しかし、いつしか僕は「デート代を稼ぎたいんだ」という都合の良い大義名分の作り、裕子を教室に残して野猿街道沿いのパチンコ屋に入り浸るようになった。

 

それから僕は毎日朝から晩まパチンコを打ち、勝てば近くのホテルに泊まって影武者の裕子とともに翌日の講義とパチンコのイベントに備えた。さらに熱いイベントがある日は白ブラウスを着た裕子と一緒に朝からパチンコ屋に並び、目をつけておいた台で朝から晩まで粘り倒した。

 

パチンコを打っている自分は客観的な視点でどのように描写してもカッコ良いと言える姿になかったが、大当たりを迎えると脳の奥底からゴポゴポと流れ出す分泌液を感じ、顔が紅潮する頃にはこの上ない幸福感に包まれていた。

 

その時だけは世の中のすべてに感謝することができたし明日からの大学生活、裕子との将来など、あるはずのない輝かしい未来への計画を上手に立てることができた。

 

しかしその後半年が経ち親への罪悪感も感じなくなっていた頃、文字どおり自堕落なその生活は終わりを告げた。裕子が僕の両親に状況を密告していたのだ。パチンコ屋に父親がやってきた時は視界がスローモーションに切り替わり、この世の終わりを感じた。

 

車で家に帰る道中、僕は泣きながら「大学は辞めさせてください」と助手席から父親に頭を下げた。父親は黙って頷いた。少しの沈黙の後、裕子はあっけらかんとした声で言った「とりあえず帰ったらバイトでも一緒に探すかね!」。僕は眉間にシワが寄らないように細心の注意を払いながら「ありがとう」の一言を絞り出すのに精一杯だった。

 

フリーターの進化系はバンドマン

 

大学を中退した僕が働き始めたのは地元にあったデリバリー専門の中華料理屋の配達員で時給は1000円。パチンコを打ちながら暮らすにはもう少し金が必要だったが、配達中は誰からも干渉されないという自由さに惹かれて働くことを決めた。

 

アルバイト初日。小汚く締まりの悪いガラスの引き戸を開け、ぬちゃぬちゃとした感触を靴裏に感じながら油まみれの床を踏み進めると、ロッカルームの前で金髪のイケメンが突っ伏して泣き崩れていた。「アンダーグラウンドへようこそ」どこからかそんな声が聞こえたような気がした。

 

「居場所がねぇんだよ〜」風俗狂いの店長に向かって大声で叫んでいたのは長野からメジャーデビューを目指して上京してきたギタリスト平田さん21歳だ。

 

店長曰く、平田さんは少し前に大好きだった彼女にフラれて精神が不安定になり音信不通になったとのこと。ようやく現れたその日、店に保管してあるつり銭を盗んで逃げようとしたところ店長に捕まり、あえなく御用となったというわけだ。

 

その他にも店には個性的な人がたくさんいた。小指のない舞台役者で蚊の鳴くような声で話す高橋さん34歳、「パスポートは失くした」と言い張る中華人民共和国・福建省出身の陳くんは年齢不詳。極め付けは出会い系サイトに毎月15万をつぎ込む小デブ坊主の江口くん。デフォルトで尖っているその口元は彼の性格の大方を示していた。

 

彼は100万円以上を課金してようやく取り付けた女の子との約束に「結婚してきます」とタキシードを着込み薔薇の花束を持って挑んだ19歳。後日談によると当日8時間待っても女の子は現れなかったそうだが、プライドの高さからバイト先では「付き合ったけどその日に別れた」とみえみえの嘘を堂々とつく生ける伝説だ。

 

いつ行方を眩ましてもおかしくないアングラなメンツに囲まれて良かったことは一つ。新人の僕が他を差し置いて3ヶ月でバイトリーダーになれたことだ。シフト作成や資材発注、新人教育を行う代わりに僕の時給は100円もアップした。

 

僕がリーダーになってすぐ、陽気で良い奴だった陳くんが職務質問にあい不法滞在の罪で強制送還された。罪人ではあるが一緒に働いた仲間だというのに、その話を聞いて誰一人顔色を変えることはなかった。産まれて初めて人格は欠損するものだと知った。

 

数日後、代わりの新人がすぐに見つかり店長は「今日新人来るから佐藤くんよろしくね〜」と言い半休を取得。そして彼は「今日は新人イベントなんだ」と池袋のヘルス街へ消えた。

 

その夜、僕が店で待機していると西部警察の大門のようなサングラスをかけベースらしき楽器を背負い、革パンを履いた大男が店の前をウロウロしていた。漂うアングラ臭に僕は「この人じゃありませんように」と唱えながら店を出た。すると大男に「山岡です。よろしくお願いします」と低い声で話しかけられ一気に気分が沈んだ。

 

山岡さんは福島県出身の23歳。誰もが知る一流企業の職を新卒入社後半年で捨て、学生時代から続けてきた音楽でプロになりたいという夢を抱いて上京したベーシストだ。話してみると大学を出ているだけに常識があり「仲良くできそうだ」と親近感が湧いた。しかし、山岡さんは一流企業で仕事をしていたと語る割に仕事の覚えがすこぶる悪かった。

 

配達の仕事は注文が来なければ何をやっても良いというダメ人間養成所みたいな環境だったこともあり、僕と山岡さんはすぐに打ち解けた。僕は高校に友達が一人も居なかったこと、好きなパチンコ、付き合っている裕子の話。山岡さんは一流企業のあくどさや音楽の話、満員の日本武道館でライブがしたいとそれぞれの人となりや夢を語った。

 

僕らが話をするとき、山岡さんは決まって自分の好きな音楽を流した。ある日流れたEastern youthの「夏の日の午後」という曲を僕は気に入り「めちゃくちゃカッコ良いですね」と興奮気味に伝えると「センスが良いね」と山岡さんは嬉しそうに笑った。

 

次の日、山岡さんは「コレ聞いてみな!」とおすすめCDを2枚貸してくれた。僕はそこまで音楽に興味は無かったのだが、山岡さんの好意を無下にしたくなかったので家に帰ってしっかり聴いた。

 

貸してくれたのはパンク系。ラモーンズのベスト盤とクラッシュのロンドンコーリングだ。山岡さんは僕に「どうだった?」と嬉しそうに聞いてきた。僕は「カッコ良さそうなのはわかるんですけど、いまいちピンと来なかったですね」と正直に答えた。

 

すると山岡さんは待ってましたとばかりに「じゃあ次これ聞いてみな」と言ってレッドホットチリペッパーズの「カリフォルニケーション」「バイザウェイ」を貸してくれた。しかし、このやり取りがずっと続くのはしんどいと感じていた僕は、これが好みでなければCDを借りるのはやんわり断ろうと心に決めていた。

 

家に帰り義務感に駆られながらもCDを聴いた。すると僕の中でレッドホットチリペッパーズがまさかのスマッシュヒット。僕は山岡さんに会うのを待てずにメールした。

 

「山さん、これはヤバいです。特にこの青い絵のジャケットの1曲目。ドリルみたいな音入ってますよ!」と送ると。

 

「佐藤くん、それジョンのギターだわ。メチャクチャかっこ良いだろ?やっぱレッチリは万人共通だな」とすぐに返ってきた。

 

次の日、山岡さんに会えるのを楽しみに出勤すると彼は普段あまり見せないクールな表情で店の前を掃除していた。僕は機嫌の悪さを察し気を使って言葉は挨拶に留め、少し離れたところで事務作業に取り掛かった。すると山岡さんは店の中に戻り、レッドホットチリペッパーズのバイザウェイを爆音で流し始めた。

 

「山さん、生意気言ってすみません。それちょっと欲しがりすぎですわ。CD良かったろ?って普通に聞いてくれればいいじゃないですか」

 

「え?あ、佐藤くんてレッチリ好きなんだっけ?俺は聞きたいからかけただけなんだけどなぁ。やっぱ朝はレッチリでしょ。」

 

こじらせた承認欲求と仕事のデキの悪さを除けば山岡さんは僕にとってパーフェクトなお兄さんだったが、未知の音楽を教えてくれた感謝から僕はこう切り出した。

 

「レッドホットチリペッパーズってレッチリって略すんですね。メチャクチャ良かったです!特にあの1曲目のギター痺れましたよ」

 

そこから山岡さんは、上機嫌で僕が好きだと言ったジョン・フルシアンテのギターについて語った。ジョンが右足でリズムを取りながら弾いている様子をマネ、ストラトのギターとマーシャルのアンプの組み合わせがどうのこうのと次から次へとうんちくが飛び出した。僕は話のほとんどを理解することができなかったが、楽しそうな山岡さんの話を遮るのは気が引けて、ほぼオウム返しで会話をやりくりした。

 

以降、山岡さんとのCDラリーは約1年続いた。そこで知り得た音楽たちは無気力だった僕の生活を確実に彩り、僕の実家に入り浸るようになった裕子からは「変わったね〜、明るくなった!」と言われる機会が増えた。

 

CDの感想は直接話して盛り上がりたかったが、山岡さんとシフトが重ならない日はメールでやり取り。1年経っても仕事をロクに覚えられない不器用な山岡さんは周りからバカ呼ばわりされるまでになっていたが、僕にとって彼は太陽そのものだった。

 

ある日、借りていたランシドのCDについて一刻も早く山岡さんと話をしたくて彼が出勤してくる時間を見計らい僕は店の前で到着を待った。店から一直線に伸びる上り坂の頂上から上京以来久しく使っていないだろうベースの頭が出た辺りで、僕は大きく手を振り「山さん、早く!遅刻するよ!」と叫んだ。

 

一直線の道に加えて名前を呼んでいるにも関わらず、いつも店の10m手前まで気づかないフリを決め込む山岡さんは、その日3m前まで白々しい演技を続けた。「おお、気づかなかったわ」と小走りで僕の前に来た様子は、どこか緊張感を帯びていて「あれ?もしかして辞める系か」と僕を不安にさせた。

 

僕が店の中に入ろうとすると山岡さんは話があると僕を引き止め、俯き気味でこう言った。

 

「佐藤ぐん、俺とバンドやらねが?ギターボーカルが見づがっであとドラムだげなんだ」緊張すると故郷の訛りが出る山岡さんの様子は真剣そのものだった。上京して1年が経ちライブどころかバンドすら組めていない状況に焦っていたのかもしれない。

 

「え?何言ってんですか。やらないですよ」僕は話が退職の申し出ではないことに安心して構わず即答した。

 

YESの返事を期待していたであろう山岡さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして弱気な声で言った「なんでぇ?」。その問いに僕はそもそもバンドをやろうと考えたことも無く、ドラムという全く経験のない楽器にはなおさら興味がないと答えた。

 

すると山岡さんは言った。「興味ねぇごとやるがら面白くなるんだろうがよ、佐藤くんだってレッチリ知らながったけど聞いでみたら良がったでしょう?大丈夫、ドラムは俺が教えでやるから」

 

興味のない仕事を放り出して上京してきた山岡さんの言うことではないと思ったが、レッチリの話は的を射ていた。僕は数日考え抜いた末、ちゃんと教えてくれるのならという条件付きでドラムとして山岡さんのバンドに入ることを決めた。その意を山岡さんに伝えると、彼はこの上ないしたり顔で頬の緩みを抑えようと意味も無く口を膨らませた。僕はその様に腹が立った。

 

こうして僕は紹介伝いでしか成り得ないバンドのドラマーという初級ライセンスを取得して、フリーター界のキャリアアップに成功した。

 

バンドマンデビュー

 

「とりあえずこれさえ出来れば何とかなるよ」と山岡さんが僕に教えてくれたのはエイトビートと呼ばれる基本的なリズムパターンの一つだ。ドンタンドドタンと聞き覚えのあるリズムだったので簡単だろうと真似てみたが、面白いほど手足が一緒に動いてしまい何一つ再現できなかった。

 

山岡さんは「最初は皆そんなもんだわ」と笑って、手足それぞれのリズムを一つずつ練習するよう教えてくれた。1時間ほど叩き続けてそれらしいリズムが刻めるようになると、山岡さんは「お!才能あるね!」と僕の機嫌を取るように言った。

 

そこから約1ヶ月ドラムを練習し簡単な曲をかろうじて叩けるようになった頃、山岡さんが見つけてきたギターボーカルと3人で曲を合わせることになった。

 

スタジオの場所はバンドマンの街、下北沢。スタジオ当日、山岡さんと二人で下北沢駅の南口を出たところに座りギターボーカルを待っていると、黒いパンツに赤と黒のボーダーのセーターを着たいかにもバンドマン風のイケメンが商店街の中から笑顔でこちらに手を振りながら歩いてきた。

 

「どうも、よろしく!」と笑顔で握手を求めてきた彼の名前はたまじ。僕より3つ年上の23歳で身長は約150cmと小柄だがジャニーズ顔のイケメン。人懐っこく底抜けに明るいその様子からは明らかなワンピース好きの兆候が見て取れた。

 

僕が「あ、はじめまして。佐藤です」と暗めの挨拶で返したのは、たまじさんは自分がルフィー的な存在であることを信じて疑わないタイプだと察したからだ。この手のタイプに深入りすると完全に振り回される。そして、そう教えてくれたのは僕の横にいる山岡さんに他ならなかった。

 

かくしてバンドの音合わせがはじまった。当日は二人が持ってきたオリジナル曲を演奏するということで初心者の僕はリズムを刻んでいれば良いだけなので気負うことはなかった。山岡さんが持ってきたパンクロック風の曲の名前は「クロムハーツ」。偶然にも僕が知っているシルバーアクセサリーのブランド名と一致していた。

 

グリーンデイ、オフスプリング、ブラーを足すだけ足して割る作業をしなかったその曲に「前衛的」以外の言葉を僕は見つけられなかった。しかし、山岡さんが一生懸命歌っている姿を見ると胸が締め付けられ、演奏が終わったあとにかける言葉を僕もドラムを叩きながら一生懸命探した。

 

たまじさんが持ってきた曲は跳ねたリズムのポップなロカビリー調で聞きやすかった。その後、会話の流れで曲名を聞くと彼は「Bring It Back Again…」と小声で言った。これまた偶然にも僕の知っているストレイキャッツというバンドの曲と全く同じ名前だったことに驚いた。

 

スタジオを終え下北沢南口商店街の中にある安い焼き鳥屋で酒を飲んだ。山岡さんは大好きな甲本ヒロトの歌詞について熱く語り、たまじさんはブライアン・セッツァーのギターについて大きな目を輝かせて熱弁を振るう。

 

端から聞いているとお互いがお互いの話を全く聞いていないので会話は一つも成り立っていないのだが、彼らはおかまいなしに話を続けた。そしてふと、勢いに押されて黙ることしか出来なかった僕に気づいたたまじさんは焼き鳥を頬張りながら「佐藤くんは何が好きなの?」と聞いてきた。

 

熱く語れるほど好きなアーティストなんていなかった僕は何となく「レッチリ…とか」と答えた。するとたまじさんは「最近の若い子ってみんなレッチリ好きだよね」と返してきたため、僕は「この人と仲良くなることはないだろうな」という確信を得た。

 

しかし、なりたいものどころかパチンコ以外に好きと言えることのなかった僕にとって、今の自分ではない何かになろうと足掻く彼らの姿は少しだけ羨ましいものだった。

 

二人が一通りの話を終えると「とりあえず一回ライブやってみるか」というありえない方向に話が落ちはじめた。話を聞いてみると、たまじさんの知り合いでライブイベントを主催している人がおり、そのツテでライブに出ることができるとのこと。

 

「いや、僕まだはじめて一ヶ月なんで」と前向きではない意見を言うと「俺が教えてやるよ」とたまじさんが名乗り出た。

 

ギター小僧が何を言うかと思いながらも話を聞いてみると、どうやら彼は元々ドラマーとしてCD5000枚を売った青春パンク系のバンドで活動していた経歴を持っており全国ツアーも経験している猛者だったのだ。ちなみにドラムを辞めてギターボーカルをはじめたのは「目立ちたいから」というシンプルなものだった。

 

そこから山岡さんは曲作り、たまじさんも曲を作りながら僕にドラムを教えてくれた。たまじさんとスタジオに入ってみると彼は高速でツインペダルを使いこなすほどのすごいドラマーでギターの腕がかすむほどの演奏力を持っていた。

 

「いいか?クリックを使わないドラマーはドラマーって言わないんだよ」と持論を展開したたまじさんは、スティックの振り方からリズムを安定させるための基礎練習を紙に書いて僕に渡し「寝ても覚めてもこれをやれ」と言い放った。

 

その内容はBPM100でクリックを鳴らしてスネアドラムとバスドラムを一定のリズムで叩き続けるという単純なもので、スタジオに入ったらこれを休むことなく1時間半、残りの30分は曲のフレーズを考えろ丁寧に時間割まで記載されていた。

 

ライブが3ヶ月後に決まると二人の目つきは変わりバンドの練習は初回とは比べものにならないほどシビアになった。

 

僕がミスれば演奏は止まり、山岡さんとたまじさんから罵声が飛んでくる。毎日練習しているにも関わらず浴びせらる「お前本当に練習してんのかよ!」の一言は人格否定とも取れるほど強烈なものだった。

 

それから僕はとにかく二人に怒られたくない一心でドラムを叩き続けた。当初は二人の作ってきた曲に不平不満を言う余裕もあったが、いつしか曲の良し悪しについて考えることすらなくなっていた。バイトが終わってから毎日2時間。バンド練習がある日もそのあとに一人でスタジオに入って黙々と叩き続ける。そしてライブ当日を迎えた。

 

場所は下北沢屋根裏で出演順は2番目の19時から。バンド名はいつの間にかたまじさんが勝手に決めたbilly's cafeという名前に決まっていた。由来を聞いてみると「ビリーってウィリアムのあだ名なんだってね」とよくわからない答えが帰ってきたが、彼がありったけのナルシズムを込めてつけたバンド名であることは感じ取れた。

 

14時にライブハウスに到着して他のバンドのリハーサルを見ていると、ドラムは皆明らかに僕より上手かった。その様子にたじろいでいると山岡さんは「佐藤くん怯むな、練習してきたんだから堂々とやろうぜ。」とフォローしてくれた。

 

リハーサルを終えてマンションの一室のような5階の楽屋に上がり出番を待った。楽屋は街に転がっている小さな悪を集めたようなところで、髪がツンツンに逆立っている人や金髪のモヒカン、目の吊り上がったイカついお兄さんがガハハガハハと声を上げて談笑しており、一般人の僕にとってこの上なく居心地が悪かった。

 

出番が近づくに連れて緊張感が増してきた僕は居ても立ってもいられず下北沢の街を練り歩きながら裕子に電話をかけた。

 

「あ〜、もしもし。俺だけど」

 

「どうしたの〜、もうすぐ出番でしょ?見に行くよー!」

 

「いや、緊張しすぎて吐きそう。ていうか帰りたい」

 

「そっか〜。はじめてのライブだしそりゃ緊張するよね。でも練習してきたじゃん」

 

「みんな俺より全然上手い」

 

「そうなの?大丈夫だよ、素人には上手い下手なんてわかんないんだから」

 

「ほんと帰りたい、俺何やってんだこんなとこで」

 

「そう言わないで頑張…あ、ごめん電車きちゃった!あとで行くから頑張ってね!」

 

裕子と話したことで少し冷静さを取り戻した僕は出番に向けて準備をするべく楽屋へ戻った。するとたまじさんは僕を見つけるなり「心配するな。リハを見てわかる通りお前は今日、ここにいる誰よりもドラムが一番下手なんだ。ちょっとミスったって誰も驚きゃしないよ」とフォローか嫌味かわからない一言で僕を惑わせた。

 

上京後はじめてのライブを迎える山岡さんは「ようやくはじまるで」と自分の世界に入り込んでいて「佐藤くん、頼むわ」と並々ならぬプレッシャーをかけてきた。そうこうしているうちに1バンド目の演奏が終了。インターフォンで「billy's cafeさんお願いします」と呼び出しが入った。

 

入り口から客席を割ってステージに上がり山岡さんはベース、たまじさんはギター、僕はドラムをセッティング。会場はイベンターや他のバンドの力もあってパンパンだ。恥をかくならせめて少人数でと考えていた僕の望みはありがたくも打ち砕かれた。

 

セッティングを終え3人がアイコンタクトを取るとたまじさんが手をあげて、演奏のはじまりを知らせる。流れていた音楽が止まると同時に僕がハイハットで4カウントを入れて1曲目がはじまった。

 

曲がはじまっても緊張が解けずフワフワとしていた僕は、自分の叩くフレーズを頭の中で追いかけ二人に迷惑をかけまいと必死に叩いた。ギンギンに焚かれた照明に照らされて汗が吹き出す。ふと前をみると100人近いお客さん一人ひとりの表情がスローモーションのように映った。

 

2曲目、3曲目と続き残り3曲の時点でたまじさんのMCが入り演奏は止まった。観客は盛り上がるでも冷めるでもなく真顔で見ている人が多かったため、僕たちの音楽がウケてはいないということは理解できたが、この場を早く去りたい僕にとってそんなことはどうでも良かった。

 

そこから4曲目を終えて5曲目。山岡さんのクロムハーツを演奏している時に事件は起こった。もうあと少しでライブが終わるという気の緩みから僕が曲の展開を間違え、混乱して演奏を止めてしまったのだ。

 

100人近い観客の視線が一斉に僕に集まり、2秒後には山岡さんが鬼のような形相で僕を睨んでいた。すると、場の空気を察したたまじさんがすかさずMCを入れ、曲は最初からやり直すことに。そのまま何とか6曲目まで演奏して初ライブは終了した。

 

僕は呆然としたままステージを降りた。隅で見ていた裕子が「お疲れ〜!かっこ良かったよ〜!」と肩を叩いてきたが、振り向く気にはなれずそのまま5階の楽屋へと向かった。

 

僕が部屋の隅に座りうなだれていると帰ってきたたまじさんが「たった3ヶ月でお前はよくやったよ」と言いながら頭にタオルをかけてくれた。悲しくもないのに僕の目には涙が溢れ、それを隠そうとなおさら下を向いた。

 

一方、山岡さんは楽屋へ帰るなり静かに言った。「たまじ、俺抜けるわ」。たまじさんは「そっか!」と作り笑いを浮かべた。山岡さんは続けた「俺はこのままじゃダメだ。曲もそうだし、もっとすごい奴らと一緒にやりてぇ」。そう言い残して山岡さんはふさぎこんだ僕には触れずに荷物をまとめてその場を後にした。

 

僕は山岡さんに満足するライブをさせてあげられなかったことへの申し訳なさがあった反面、これで苦しかった日々が終わるということに安堵していた。バンドなんて僕には向かなかったのだと諦めもついていたからだ。

 

フロアに戻り他のバンドのライブを見た。輝かしい彼らのライブに客席は大盛り上がりしていて、その光景が僕の目には映画のエンドロールのように映っていた。もうこの場所に来ることもないのだと思うと少しだけ寂しかったが一切の悔いはなかった。

 

すべてのバンドが出番を終え帰り仕度を済ませてたまじさんと一緒にライブハウスを出た。僕は最後にたまじさんに礼を言ってから帰ろうと思い、どうでも良いやり取り続ける中で伝える機会を伺っていた。

 

会話が途切れ「たまじさん、短いあい…」と切り出したところ、たまじさんは僕の話を遮るように言った。「とりあえずメンバー探しからはじめるか。チャッピー」。

 

散々なライブをしておいてベースも抜けた。その上、初心者の僕を引き連れてまだバンドをやろうとしている彼の前向きさに開いた口が塞がらなかった。そして気になった呼び名について「チャッピー?」と聞き返すとたまじさんは言った。

 

「いや前々から思ってたんだけどさ、お前、南国少年パプワくんに出てくる犬に似てんだよな。だから今日からお前はチャッピーな。」

 

「う〜ん、うん」僕は名前についてかバンドについてかわからないまま返事をした。

 

「一緒に練習して上手くなってさ、とりあえず山ちゃん見返すくらいのバンドになろうぜ。まあ明日バイト終わったらウチ来いよ。それから今後の策を一緒に考えようじゃないか」

 

それを伝えるとたまじさんは「打ち上げに遅れる!」と急ぎ足で去っていった。

 

帰りは裕子と一緒に電車に乗って家まで帰った。地元の駅について家まで歩いている最中、裕子にバンドを続けることになりそうだと話をしたところ「あれだけ嫌がってたのに続けちゃうあたり、しょうちゃんらしいね!」と大笑いし、手を双眼鏡のように丸めて「お!バンドマン発見!」とふざけてみせた。

 

「私も22歳でバンドマンの彼女か。でも来月から夜の仕事やめてエステティシャンになるし。最悪、食わしてやるから思い切りやっといで!」と語る裕子はどこか嬉しそうだった。僕は裕子に対して後ろめたい気持ちがありながらも、やれるところまでやってみようなどと、これから繰り広げられるバンドマンとしての生活にわずかだが光ある未来を描き始めていた。

 

井の中のバンドマン

 

下北沢南口商店街を抜けて三軒茶屋方向へ、代沢小学校を左に折れてしばらく進み車も通れない細い路地を入ったところにたまじさんの住むアパートはあった。見立ては築30年、入り口付近にびっしりと生えたコケが日当たりの悪さを物語っていた。

 

ドアノブをひねってプラスチックのように軽いドアを開けると部屋の向こうから「おう、チャッピーか。入れよ」と声がした。

 

2畳ほどの薄暗いキッチンを抜けて部屋に入ると4.5畳ほどのスペースにベッドが一つ。ブラウン管テレビが収納されているラックには無数のCDが並べられていて、周りを見渡すと名だたるミュージシャンのポスターが壁一面にびっしりと貼られていた。

 

僕は軽く挨拶を済ませて床に座り込み、タバコに火をつけた。「メンバーなんだけどさ、やっぱ俺ら一応ロカビリーバンドじゃん。だからとりあえずはウッドベース。それから凄腕のギターを探そうと思うんだけどどう?」たまじさんは言った。

 

自分たちがロカビリーバンドであることをこの時に初めて知った僕はウッドベースとエレキベースの違いすらわからなかったが、たまじさんは説明が上手な人ではないので「いいんじゃないすか?」と適当に返事を返した。

 

「よし、そうと決まったら早速募集をはじめるか」たまじさんはそう言って、紙とペンを取り出し、手書きでメンバー募集チラシを作り始めた。

 

キュッキュッとペンを走らせ彼は募集文を書き始めた。

 

「ウッドベース&ギター募集!当方、たまじ/ギターボーカル23歳、チャッピー/ドラム20歳の2名。下北、渋谷、新宿を中心に活動予定のロカビリーバンド!好きなアーティストはストレイキャッツ、モトリークルー、アイアンメイデン、レッチリ。プロ志向でバンド中心に生活できる君、一緒にグランドラインを航海してみないか?」

 

ロカビリーバンドと謳いながら好きなアーティストはたまじさんのルーツであるヘビーメタルバンドが半分を占め、プロ志向を名乗るも「グランドライン」というチープな表現がこの上ないアマチュア感を醸し出していた。

 

「どうせ募集は来ないだろう」そう考えていた僕は「いいんじゃない?」と賛同するとたまじさんは嬉しそうな顔をして出かける支度をしながら僕に言った。「よし、じゃあこれコンビニでコピーして今からバラ撒きに行くぞ!」

 

家を出た僕たちは茶沢通り沿いのローソンでチラシを100部コピー。2月の寒空の下、たまじさんのバイクに二人乗りして下北沢、新宿、渋谷へ。街中の音楽スタジオにチラシを貼った。夜の9時から活動してすべてを終えたのは深夜1時。終わる頃には体が芯から冷え切っていたので、帰りに環七のラーメン屋によって二人でラーメンを食べた。

 

「こんなんで本当に募集くるんですかね?」僕はラーメンをすすりながらたまじさんに聞いた。すると彼は「来るか来ないかじゃないんだよ。まずは今やるべきことをやらないとな」と最もらしい話で僕を丸め込んだ。

 

それから数日後、かなりの数の音楽スタジオにチラシを貼ったおかげか、ウッドベース奏者はすぐに見つかった。ロカビリーが大好きでストレイキャッツのリー・ロッカーに憧れてウッドベースをはじめた彼女の名前はゆきの。

 

この春に一流大学を卒業する予定の彼女は僕より2つ年上の22歳。音楽でプロを目指すべく卒業後は一旦フリーターになるということだったが、実は妻子持ちの男と会う時間を確保するためという儚すぎる理由が本当のところ。僕は「こいつは筋金入りだ」と恐れおののいた。

 

ゆきのが色白というだけで、たまじさんは彼女のステージネームを犬用食品「骨っこ」のCMに起用されていた犬「ゴン太」と命名。ゴン太は「彼が行方不明なんです…」と謎のメールを残したまま音信不通になることもあったが、僕らは着々と練習を重ね何とか定期的にライブができるところまでこぎつけた。

 

僕らが出演していたライブハウス主催イベントというのは対外的な見せ方で、その内情はブッキングライブと呼ばれるもの。30分30000円(チケットノルマ1500円×20枚)、高級ソープランドと同等価格の演奏枠を各バンドが買い、それぞれが友達や知り合いなど素人を集め、プロさながらの顔つきで演奏するというシュールなものだった。

 

「ライブ観においでよ」と声をかけて来きてくれる友達は、最初こそ珍しがって来てくれるものの、何度も誘ううちに決まって連絡が途絶える。その理由は至って単純だ。

 

たまの休みという大切な日に数時間の身柄拘束。薄暗い地下室に通されて愛想のない店員に2000円を支払いようやく目にすることができるのは、謎に緊張した友人の姿とプロのソレとはかけ離れた演奏や楽曲。おまけに「カッコ良かったよ」というチップのような一言もカツアゲされる。

 

ようやく終わったと思ったら、間髪入れずに強面お兄さんバンドがステージに登場し帰るタイミングを見失う。初見にも関わらず「お前ら拳あげろ〜!」と客もまばらなフロアに向けてすごい剣幕で身体的動作を要求するのだからたまったものではない。

 

「それでも客を呼ぶのが営業だ」と語るたまじさんの電話帳はプスプスに焦げついていて、僕はその負の連鎖に気づいてから友達を呼ばなくなった。次第に僕らのライブに足を運んでくれるのは裕子とたまじさんの彼女だけになっていった。

 

多くのバンドがそんな状況の中で続けていられるのは、バンドマン同士の馴れ合いに他ならないと僕は思っていた。ましてや客の居ないバンド同士が存在を認め合い、立ち向かうべき苦悩や葛藤を洗い流すように酒を飲む打ち上げという場は、僕にとって苦行でしかなかった。

 

横のつながりがバンドを大きくすると語るたまじさんに半ば強制的に参加させられていた打ち上げでは、客の居ないステージに対する美学や果たされることのない夢が語られ、フリーターであろう名前も聞いたことない先輩バンドが目標として崇め奉られていた。

 

「待って待って、客居ないよね?」という根本の問題には目を向けず繰り返される浮世話に興味を持てなかった僕は、その域を抜け出せない自分たちへの憤りも相まって毎回の打ち上げで終始無言を貫いていたので、友達と呼べる仲間ができることもなかった。

 

一方、ライブハウスでは打ち上げでつながったバンドマンのライブに無料枠を使ってバンドマンが駆けつけ、バンドマンが最前列で盛り上げるという滑稽なブッキングライブが毎夜開催されていたが、100分の1ほどの確率で異彩を放つバンドも存在した。

 

その一つがYellow Studsというバンドだ。楽曲はロカビリーというよりガレージ寄りだったが、ウッドベースを使っていたことからライブハウス側がロカビリーのジャンルにブッキングしたのだろう。

 

その日もフロアに客は10人足らず。僕らがステージを終えてYellow Studsの出番になっても客足が伸びることはなく、最前列にはメンバーの彼女らしき若い女子4〜5名がキャッキャと陣取っているのみだった。

 

見た目はスーツの似合うちょっと怖いお兄さんバンドという印象だった。僕もフロアの隅でタバコを吸いながら「全員男前だな〜」などと悠長に構えていたが、演奏がはじまると、ものの数分でその独特の世界観に引き込まれた。ライブを見終える頃には、同期ながら「こういうバンドが売れるんだろうな」と見上げている自分に気づいた。

 

しかし、意外にも周りに居たバンドマンからは「イケメンバンドだよね」「ミッシェルっぽいよな」などYellow Studsについて良い話を聞くことはなかった。ただ、遠回しに揶揄するその口ぶりは、その感想が嫉妬心からきていることを示していた。

 

終演後にチケットノルマの清算を終えた頃、僕はボーカルの野村太一くんに「お疲れ様です、お世辞抜きでカッコ良かったです」と勇気を振り絞って話かけてみた。すると彼は「ありがとうございます」と丁寧に応えた。

 

よくよく話を聞いてみるとYellow Studsのライブはまだ3回目で太一くん自身もバンドをはじめたばかりとのこと。不思議な雰囲気を纏っていた彼とは妙に馬が合い、僕ははじめてメンバー以外のバンドマンと連絡先を交換した。

 

別日にはMad squallsという強烈な存在感を放つバンドと対バンした。180cmと長身でネイビーブルーのウッドベースをバキバキにスラップをしながら歌うウッドベースボーカル、黒髪リーゼントで痺れるくらいカッコ良いギターリフを弾くギタリスト、全身にタトゥーの入った超強面ドラマーというスリーピースのロカビリーバンドだ。

 

ウッドベースボーカルのマッカスは打ち上げでひたすら酒を飲んで酔っ払い女の子を口説きはじめ、ギターのエウヴィスは部屋に備え付けのカラオケでエルヴィスプレスリーの「Can't Help Falling In Love」を歌いながら、ディナーショーの如く見知らぬ席の人に握手の手を差し出して回る。ドラムのセッツァンはすごい勢いで料理を食べていた。

 

その帰り道、渋谷のスクランブル交差点で事件は起きた。ウッドベースを抱えたマッカスの肩に触れた酔っ払いサラリーマンが「このクソバンドマンが!」と絡んできたのだ。ふと見るとマッカスの目は凍りついたように冷たかったが口元はうっすら笑っていて、「まずい」と察した時にはサラリーマンに殴りかかっていた。

 

般若のデザインが施された指輪をつけたまま殴りかかったため、サラリーマンの目の横はパックリと割れ鮮血が飛び散っていた。その場に居合わせたメンバー全員でマッカスを止め入り、たまじさんが「警察来るぞ!逃げろ!」と呼びかけ、全員がダッシュで駅に向かい電車に乗り込んだ。

 

まるで絵に書いたようなバンドマンのワンシーンに驚いたが、もうあんな危険な輩に会うことはないだろうと僕は帰りの電車の中で落ち着きを取り戻しかけていた。しかし、不運にも右を見るとマッカスらしき男の姿。目を合わすまいと心がけたが向こう側から「おう、チャッピー。どこ住んでんの?」と話しかけてきた。

 

「あ、鷺ノ宮です」と僕は答え「俺東村山だから帰り道全く一緒だな」と彼は返した。血の跡がべったりとついた般若の指輪が目につき、僕は一刻も早くこの場を去りたかったが帰り道が全く一緒であるにもかかわらず、途中で降りたら怪しまれるのではという勘ぐりからその場を離れることができず。最終的には「家近いし今度飲みに行こうぜ」と言われ連絡先の交換も受け入れてしまった。

 

のっぺりとしたバンドから奇想天外なバンドまで数々の出会いに刺激を受けながらその後約1年間、僕らは地道に活動を続けた。すると少ないながらお客さんもついてきて、Yellow StudsとMad squallsにも出演してもらった自主制作音源発売イベントは盛況を収めた。

 

ようやくバンドとして体を成せるようになった僕らだったがある日、ウッドベースを担当してきたゴン太が長かった不倫生活に疲れ果て実家に帰る決意を固めたことで、僕とたまじさんはまたメンバー募集という振り出し地点に戻ることを余儀なくされた。

 

しかし、このタイミングでゴン太が抜けたことによって状況は大きく好転しはじめたのだった。

 

はじめてのアコム

 

カッカッカッカッというクリック音に合わせてタンタンタンタンとスネアを叩いてキックを踏むだけ。薄暗い地下室にこもって行うドラムの地味な基礎練習は気が狂いそうなほど嫌いだったが、サボって「下手になったらどうしよう」という強迫観念に襲われるよりは、無理してスタジオに入った方がいくらかマシだった。

 

ゴン太が脱退してライブ活動が停止してしまった僕らだったが、たまじさんは相変わらずポジティブに行動した。彼は僕が練習している間にメンバー募集のチラシをスタジオに貼り、知り合いのバンドの打ち上げに参加してベーシスト探しに奔走した。

 

ところがある日、たまじさんから「チャッピー悪い、俺の代わりに今日の打ち上げ行ってくれないか」と一本の電話が入った。珍しいなと思い理由を尋ねてみると「今日だけは…そういう気分になれなくてさ…悪い…」と黄昏れはじめる。

 

明らかに「どうしたんですか?」を待っている様子だったので性格の悪い僕は「わかった、行ってくる」とだけ伝え電話を切ろうとしたが、たまじさんは「いや〜、俺が悪いんだけどさ…」と食いさがる。

 

仕方なしに理由を聞いてみると僕に電話をかける2分前に彼女にフラれてしまったとのことだった。たまじさんの彼女だった美雪さんは慶應大学4年生の22歳で僕より1つ年上。卒業後は大手不動産会社に就職が決まっているという容姿端麗エリート女子だ。

 

美男美女ではあったが資本主義社会においてなぜ二人のようなアンバランスカップルが誕生したのか。たまじさんの話を聞いて今更ながらそもそも論に思いを馳せた結果、二人の馴れ初めにヒントが隠されていた。

 

世間を知らないお嬢様だった19歳の美雪さんが友達とライブハウスを訪れた際、当時人気絶頂だったたまじさんの元バンドに心ときめくという盲目かつ蟻地獄な出会い。これこそが悲劇のはじまりだったのだ。

 

つい半年前まで「チャッピー、夢があるって素敵なことなのよ」と遠くを見つめながら語っていた美雪さんが別れ際、たまじさんへ涙ながらに伝えた最後の言葉。それは「先が…たまじとは先が…見えないの」という極めて夢のない一言だったらしい。

 

数日後、たまじさんの家に行くと机に置かれていたのは別れの危機を予感して取り繕ったのであろうハワイ・グアム・サイパンといった海外旅行のチラシ。俺様スタイルのたまじさんが年下のハイセンス系女子に媚びようとした跡がやけに悲しかった。そんな時、たまじさんの携帯に1件の着信が入った。

 

電話の相手がみゆきさんでないことはたまじさんの表情を見ればわかった。着信は渋谷のスクランブル交差点で乱闘騒ぎを起こしたMad squallsのマッカスからだった。

 

「え〜、マジで?ドラム抜けたの?Mad squallsもやばいじゃん!」たまじさんの言葉から彼らのバンドメンバーが脱退したという状況がわかった。

 

「そうか。ドラムは人口少ないから探すの大変だろうしなぁ。俺らもウッドベース探すの苦労しててさ。」そして彼は続けた。

 

これはもうあれか、俺ら合体するしかないか。なぁマッカス、そっちの二人と俺とチャッピーで新しくバンドやらないか?

 

僕は「失礼極まりないな」と眉間にシワを寄せてたまじさんを見た。すると彼は「俺、結構やるだろ?」と言わんばかりのウィンクを返してきて、つくづく僕らは意思の疎通が取れていないバンドだということを再認識した。

 

電話を切り終えたあとたまじさんは笑いながら言った。「ちょっと相談してみるとか言ってたけど押せばいけるよアレは。試しに1回ライブやってみようぜくらいで落としたらもうオッケーだ」。僕はきっと美雪さんもこうして口説かれたのだろうと想像した。

 

そして、たまじさんはとうとう僕に「どう?」の一言もないまま、直後に知り合いのイベンターへ電話して2ヶ月後にライブを1本ブッキング。僕は別れを告げた美雪さんの気持ちが少しだけわかったような気がした

 

後日、一旦4人で話そうということになり三軒茶屋のBARへ。メンバーは僕とたまじさん。渋谷で乱闘騒ぎを起こしたマッカス23歳、「世田谷には11人のゲイが居る」と嘘か本当かわからない自身のセクシャリティーを開けっぴろげに語るギタリストのエウヴィス26歳だ。

 

僕は彼らMad squallsの曲が大好きだったが、明らかに様子のおかしい二人の素性については完全にノータッチだったため、その場で一人緊張していた。

 

「バンド名どうするか?」たまじさんがこう切り出した。

 

「え?まだ4人でやるって決まってなくない?」マッカスが驚きながら返す。

 

「ライブ決めちゃったもん。とりあえず1回だけやってみよう」たまじさんが押す。

 

「エウヴィスさんはどう思う?」マッカスが聞いた。

 

「ん〜、まあいいんじゃない?でさぁ…」と性癖の話にすり替えようとしたエウヴィスを遮ってマッカスが「チャッピーは?」と聞いてきた。

 

僕は「せっかくだからやりましょう。面白そうですし」と返事をした。

 

こうして新しく結成した僕ら4人のバンドの名前は「DRAWS(ドロウズ)」。DRAW=描くから、新しいものを生み出すという意味を抜き出してその場でマッカスがつけた。

 

2ヶ月後に控えたライブに向けて僕たちは次の日、深夜新宿のスタジオに集まり早速音を合わせることに。とりあえずはたまじさんと僕のバンドから3曲、Mad squallsから3曲を持ち寄り、たまじさんとマッカスがそれぞれの曲でボーカルをとることになった。

 

僕は大好きだったMad squallsの曲を演奏できるということで楽しみだった。また、マッカスとエウヴィスは人格こそ破綻しているものの演奏力に長けていたのでそれもまたスタジオに入る魅力の一つだった。

 

はじめて合わせた曲はMad squallsの「GO AND GO」という僕の大好きな曲だ。僕がカウントを4つ入れて全員の音が重なった時、鳥肌が立った。ゴン太とは比べものにならないマッカスのスラップ、エウヴィスによるキレキレのギターリフ。バンド経験の浅い僕は「これがバンドか!」と他人と音を重ねることにはじめて喜びを感じていた。

 

そこから4時間。当初はゆっくり曲を煮詰める予定だったがそれぞれが相性の良さみたいなものを感じていたせいか全員が夢中で演奏し続けた。終わりかけにはマッカスが「チャッピーのドラム、すげえ弾きやすいし歌いやすいよ」と一言。僕は「そっちもやりますね」的な感じでクールに返したが、心の中では飛び跳ねるくらい喜んでいた。

 

それから僕は週5の個人練習、毎週火曜日と金曜日はバンド練習を行い2ヶ月後のライブに備えた。バンド練習は毎回順調で当初用意していた曲はすぐ仕上げることができた。

 

僕が経験したこれまでのライブは「ミスしないように」という緊張との戦いでしかなかったが、このバンドで練習を重ねる度に「早くこのライブを人に見てもらいたい」という前向きな気持ちに変わっていた。

 

そして迎えたライブ当日。場所は奇しくも僕が挫折を経験した下北沢屋根裏だ。また僕らはロカビリーバンドだったが、この日はたまじさんの知人主催のレゲエバンドイベントに無理やり入れてもらったため客層はいつもと異なる完全アウェイ。

 

ただ、今回もまた各バンドやイベンターの力で会場は100名超えで満員御礼。1年前とあまりに似た光景だったため僕は前回の演奏を止めてしまったシーンがフラッシュバックして怖気付き、緊張感が一気に高まった。

 

そんな中楽屋に帰ってみると、たまじさんは鏡の前でキメ顔を作り髪型をいじくり回すというナルシズムを全開に発揮し、マッカスはどこからか連れ込んできた女の子を口説き、エウヴィスは魚肉ソーセージを片手に対バンの男の子を追いかけ回していた。

 

以前は楽屋にタムロする派手な髪型の強面バンドマンに拒否反応を示していた僕だったが、それよりもはるかに気持ちの悪い人が自分のバンドメンバーであることを再認識すると、この1年の変化を感じることができて不思議と安心感が湧いてきた。

 

「DRAWSさんお願いしまーす」とインターフォンが鳴って僕らは5階の楽屋から3階のフロアへ向かった。人混みをかき分けてステージへ。僕らのことを知っているのはそれぞれのバンドのライブを見に来てくれていたお客さんと身内の10名足らず。客も完全アウェイなので人数こそいたものの、その場はしらけた雰囲気だった。

 

メンバーは自分のセッティングが済むとそれぞれが僕の方を向いて待機した。全員のセッティングが終わると僕がPAに向かって手を上げて演奏開始の合図を出す。音楽がフェードアウトするとともに両手でシンバルを打ち下ろしDRAWSの演奏がスタートした。

 

1曲目は様子を見ていた客も2曲からは体が揺れる。途中挟んだMCではたまじさんがこれでもかというくらい煽り3曲目、4曲目では前列が激しく盛り上がりはじめた。ドラムの位置からはフロア全体が良く見えて後ろにも笑顔の人がたくさんいた。最後の曲ではダイブしはじめる客まで出てくる始末。ライブは大盛況のうちに幕を閉じた。

 

ステージを降りて楽屋へ向かうときに待っていたのは見知らぬ人たちからの盛大に拍手。そんな反響のあるライブを経験したことのなかった僕はやや気恥ずかしく、目が合った人にだけ軽く会釈をしながら通り過ぎるのが精一杯だった。

 

「俺らは売れるな!」たまじさんが楽屋で堂々と言い放つ。僕はそんな甘くないだろと言いたかったが、タオルで隠した顔がニヤけていた。マッカスは「まあまあ良かったんじゃん」と照れ笑いに似た笑顔で返し、エウヴィスはうんうんと頷いていた。

 

その後、僕は早々にフロアへ。来てくれたお客さんにお礼を言いながら感想を聞いていると、トントンと後ろから肩を叩かれた。振り向くと見た目50代くらいのおじさんが立っていた。

 

「君、さっきのバンドのドラムだよね?ちょっといい?」おじさんはそう言って僕をライブハウスの外へ連れ出すなり名刺を差し出す。そこにはGREEN POINT Recordingsという会社名と西原という名前が書かれていた。

 

「DRAWSって言うんだっけ。レーベルはついてるの?」西原さんは質問を続けた。レコード会社の人ということは良い話なのかとも考えたが、この話が詐欺かもしれないと疑わざるを得なかったのは西原さんの不潔さと偉そうな態度に他ならなかった

 

「いや、僕らはレーベルどころか今日が初ライブですよ。どんなご用件ですか?」僕は返した。すると西原さんは話を続ける。

 

「僕ね、去年ソニーから独立してレーベルを立ち上げたんだけども、今うちからCD出すバンドを探してるのよ。君たちかなりウケてたからさ。うちから1枚出してみる気はないかなと思って」

 

僕はレーベルがどんな仕事をするのかよく知らなかったので「具体的に僕らは何をすれば良い感じですか?」と掘り下げて聞いてみた。

 

「君らはCD作ってライブする。うちは持ってるネットワークを生かして君らをプロモーションする。お金は山分け。単純に言うとこういう話かな。」

 

プロを目指してバンドをやっていたが音楽でお金がもらえるということをすっかり忘れていた僕は少しの胡散臭さを感じつつも、先ほどのライブの反響も手伝って「わかりました、やらせてもらいます」と即答。

 

あまりの話の早さにメンバーへの確認は大丈夫かと問われたが、メンバーにはまともな人が一人も居ないと説明すると「バンドってそんなもんだよな」と納得した様子。連絡先を交換すると西原さんはその場を後にした。

 

楽屋に戻って西原さんの名刺を渡しCDを出すことになったとメンバーに伝えると、たまじさんは呆れ顔で言った。「お前な〜。メンバーに何の相談もしないでよくそういう大事なこと勝手に決められるよな〜。」この人だけには言われたくない言葉だったが、僕はやり返した感があって誇らしかった。

 

そして後日、西原さんから電話がありメンバー全員と会うことに。「中華でも行こうか」と気前よく言い放った西原さんが用意した店は下北沢にある中華の超有名店、餃子の王将だった。

 

西原さんのレーベルが弱小であることを決定づけたのは「一人一品まで」という2度の念押しだ。僕らは不安になったもののその場でバンドの状況と契約内容、プロモーション、リリース日程などを擦り合わせ大方の段取りを決めた。

 

実績がないため初回のレコーディング費用はバンド持ち。CDの売り上げは30%が小売店、20%が流通会社、10%が西原さんで僕らには40%という具合に山分けする。

 

3ヶ月以内に10曲をレコーディングしてアルバムを制作。リリース日は6ヶ月後の5月12日。全国ツアーは西原さんが紹介してくれるイベントを除いて自分たちでブッキングする。話し合った末、ロカビリーバンドでは真似できない数を回ろうと35箇所に決めた。

 

先行き明るい話のようだが難点が一つ。お金だ。練習時間を考えるとアルバイトを減らす必要がありツアー車やレコーディング、その他諸費用を加えると安く見積もっても数十万円のお金が一気に飛ぶ。貯金など持ち合わせていない僕はこれまでのアルバイトで培った信用だけを頼りにはじめてのアコムへ。

 

年利は29%の意味はわからなかったが取り急ぎカードを作れば、限度額50万円の中から必要なときに必要なだけ引き出すことができるという。僕は試しに1万円を借り入れその手軽さに驚いた。まるでぬかるみに足を取られたかのように、僕は借金と手をつなぎながらズブズブと音を立ててバンドマン街道をゆっくりと歩き始めた。

 

素敵なカンチガイ

 

「レコーディング 格安」と散々調べて行き着いたのは東京とは呼べないくらい山奥にあるスタジオで一軒家を改築した個人経営スタイル。DATというテープに録音する古いレコーディングシステムを使う代わりに料金は1時間3000円と破格だった。

 

1日10時間を3日連続で押さえ10曲すべての音を録音し、音のミックス作業まで終わらせるという条件付きで1時間2500円までディスカウント。結果的に75000円という相場の半額以下でのレコーディングが可能になった。

 

本来はドラム→ウッドベース→ギター→ボーカル→コーラスという順番で撮るのだが、時間短縮のためドラムとウッドベースは一緒にレコーディング。

 

1箇所ミスったら最初からやり直しというプレッシャーを背負いながら30分に1曲のペースで何とか仕上げ、初日はリズム隊を録り終えギターを途中まで録音。2日目の後半には途中だったギターと歌を入れて、残りの時間はすべてミックスに使った。

 

音源が出来たら次はツアーのブッキングやグッズ制作。僕は作詞・作曲が出来ない代わりに裏方の仕事をすべて引き受けた。地味な仕事かと思いきや、これはこれで商いごっこのようで楽しかったし、ライブハウス事情についても知ることができた。

 

特にバンドからお金を吸い上げる場所だと思い込んでいたライブハウスの「ツアー」という独特の仕組みには驚いた。

 

通常ライブハウスはバンドにチケットノルマという名目で演奏枠を販売しているのだが、ツアーバンドは特例でノルマが無い。さらに動員が1名でもあればほぼ100%がギャラとして返ってくるという仕組みだ。

 

その正体はツアーに出るほどの有名バンド?を誘致することで、ツアーバンドと繋がりたい地元バンドをブッキングするという地方ライブハウスのマーケティングでもあるわけだが、ツアーバンドは無料で宣伝ライブができるのだからWin Winだ。

 

僕は毎日の練習の傍ら、バイトの休憩時間を利用して地方ライブハウスとのやり取りを進めツアーをブッキング。Tシャツやステッカーなどグッズの原価を計算して値を決め、業者を選んで発注するなどの裏方仕事を黙々とこなした。

 

半年という長いようで短い準備期間を終えた2006年5月12日。DRAWSの1stAlbum「GO AND GO」が発売になった。バンドマンからすればたかがリリース。「あ、おめでとー」くらいなものだ。しかし、僕を高校生の頃から知っている裕子は「あの無気力で自堕落な少年がCD出して全国ツアーってすごいことでしょ!」と興奮していた。

 

裕子以外でもバンドマンの内情を知らない親族や友達たちはCDデビュー、あわよくばメジャーデビューとこれ見よがしに話を膨らませた。本人としては主張の強い髪型で躊躇なく借金を重ねるただのフリーター。つまり、社会的底辺としての自覚を持って生きているわけだから、気持ち悪いことこの上ない。

 

発売日は僕よりもリリースを喜んでいた裕子と横浜のタワーレコードへ。CDを発売したとて、無名の新人である僕らの作品を入荷している店は限られている。ただ、レーベルの代表である西原さんのおかげで横浜の店では試聴機入りを果たしていた。

 

三枚つ入る試聴機の一番上には僕らの75000円でレコーディングしたCDと写真を加工したCDショップ風のPOP。裕子はここぞとばかりにパシャパシャと写真を撮り始めた。

 

二番目には10-FEETというありえない順番に目を疑ったが、これまで買うばかりだったCD屋に自分が関わったものが並んでいるというのは不思議な感覚があって、けしからんとは思いつつも少しだけ誇らしい気持ちになった。

 

家に帰れば母親と裕子がカニやステーキ、グラタンなどプリン体たっぷりの豪華な食事を用意してくれた。久しぶりの家族団欒。和気藹々とみんなで食事をしていると父親は笑顔で言った。「CD発売おめでとう、我が息子ながら誇らしいな。だがアレだ。お前がツアーから返ってくる頃、この家は無くなる。すまんが一旦佐藤家は解散だ(笑)」

 

(笑)ではない。人間、本当に驚くと呼吸が止まると知ったのはこの時だ。理由はこうだ。事業失敗により家賃半年滞納というのは最もらしい言い訳で、その裏には「家賃を払ってください」と懇願してきた大家さんを父親が怒鳴り散らして裁判に発展するという、パチンコでいうところの激アツリーチ的な背景があった。

 

裕子はすでに知っていたようで「とりあえず行って来なよ!住むところは帰ってきてから考えよ!」というと僕以外の全員が大笑い。どうやらリリース準備に忙しかった僕に気を使って家族全員が内緒にしてきたようだ。僕はその賑やかな様子を伺いながら、悲しみを帯びた目の前の料理を頬張った。

 

たまじさんの住む下北沢に集合して機材車のNOAHに乗り込む。246号線を抜けて東名高速へ。今回のツアー、西は福岡、北は北海道までの計34箇所。「この1枚で売れるっしょ」という素敵なカンチガイとともに僕らは全員仕事を辞め1ヶ月半の旅に出た。

 

スタートの静岡県は静岡サナッシュ、清水JAMJAMJAM、浜松窓枠と三日連続のライブ。浜松窓枠で対バンしたイケメン大学生バンドはパンクロック系のコピーバンドで僕と同い年の22歳。彼らは最後の曲を前にMCでこう言った。

 

「来年の今頃はきっと俺らもどこかの会社で働いていて…そう思うともう子どもで居られる時間は終わったんだなって思います。悲しいけど、いつまでもバンドなんて続けるわけにもいかないよ。だから今日が最後のライブ…」(やめないでー!と女の子の声)

 

22歳でバイトを辞めて家を失くし意気揚々と全国ツアーに飛び出した僕に対しては侮辱に値するほどのMCだったので驚いたが、彼らが僕の内情について知り得るはずもないことに気づき胸をなでおろした。そして、大勢の人がそうなるようにこれから社会人として立派な道を歩むであろう彼らのMCは続いた。

 

「じゃあ、最後に。ホント最後…聞いてください。グリーンデイでマイノリティー!」

 

「逆じゃない?」僕は思わず声に出して突っ込んでしまったが、その声はギターのアルペジオと女子大生の歓声に虚しくもかき消された。

 

愛知県は安城Radio Club、大須OYS、名古屋CLUB ROCK'N'ROLL、鶴舞DAY TRIPの4本。岡崎市にある新星堂でも僕らのCDを試聴機に入れてくれていた。

 

しかし、ライブハウスではいずれも客は十人足らず。「遠方まで来てこれか…」と落胆する日もあったが、CDの売れない日が1日もないという事実は心の支えになった。

 

ツアー先のライブハウスでは対バンの人たちから「どこのホテル泊まってるの?」とよく聞かれるが、ライブを重ねるに連れて「野宿です」と食い気味かつ笑顔で答えられるようになった。

 

僕らはライブが終わると車で良い感じの公園を探し、じゃんけんで勝った二人が車、負けた二人はベンチという具合に寝床を分けていた。しかし、公園ならどこでも泊まれるというわけではない。

 

公園のベンチの中央にある肘掛けは一見親切なように見えるが、ホームレスの寝床対策であるということに気づいたのはこの時だ。特に繁華街に近いところはほぼすべて公園のベンチの中央に肘掛けがある。

 

また肘掛けのない平らなベンチを見つけてもトイレなど水場がないところは敬遠してしまう。トイレが近く、ベンチが平坦で、おまけに朝日を遮れるよう東の方向に大きな木があればベスト。そこは僕たちにとって無料のホテルだ。

 

岐阜BRAVOを終えて滋賀B♭、京都磔磔へ。B♭では当時ライブハウス界隈で有名だったGENERAL HEAD MOUNTAINと対バンだった。全員僕よりも年下ながら圧巻のパフォーマンス、そして50箇所のツアーというありえないスケジュール。名実ともに自分たちよりも格上だと実感した。

 

京都磔磔ではスウィングジャズのビッグバンドと対バンした。ライブが終わったあとにリーダーの西園寺さんから「お前ら度胸あるな〜(笑)ここはそこそこ名のある人が来るハコだぞ?」と話かけられた。

 

話を聞いてみると西園寺さんは磔磔から「無謀な若者が来たぞ〜!相手したってくれ〜!」と連絡が来て、この日のライブを取り仕切ってくれたそう。そして、初の京都ライブで動員が0人だった僕らに1万円のギャラを差し出してくれた。

 

僕らはライブをさせてもらえただけでもありがたいと断ったが「それは有名になって返しにこいや!」と僕の胸ポケットに1万円を突っ込んで笑って見せた。僕らは深々と頭を下げて「ありがとうございます!」と全力でお礼を言った。

 

磔磔での終演後荷物を積んでいるとCDを買ってくれた一人のおじさんが例のごとく「お前らどこのホテルなん?」話しかけてきてた。

 

寝床の説明はもう慣れたもので野宿から理想の公園についてのくだりを伝えると、おじさんは大笑いしながら言った。

 

「そりゃ面白ろいな!!俺は上野いうバイク屋や。お前ら今からうち来いや!」

 

時刻は23時。僕らは上野さんの家がある郊外までついていった。家に入るなり上野さんは寝ていた奥さんを「おい!客来たぞ!飯作れ!」と起こす。恐縮も恐縮だったがきっと初めてではないのだろう。奥さんは優しい笑顔で僕らを出迎えてくれた。

 

「お前ら!腹ちぎれるまで全力で食え!」上野さんの掛け声とともに僕らは「いただきます!」とがっつく。肉、魚、野菜。パックご飯&塩という食事が続いていた僕にとって上野家の食卓は貴族気分まで味わわせてくれた。上野さんはタバコを吸いながら僕らがすごい勢いで食べる様子を笑って見ていた。

 

「よし!今日は寝るな!飲むぞ!」号令とともに上野さんの差し出すウイスキーを口に運んだ。苦さ以外の味は感じなかったが、入れ物からして高価であろうことは察しがついたため「オレンジジュースありますか?」の一言と一緒に飲み込んだ。

 

そこから朝まで宴は続いた。僕らも素性やそれぞれの背景を洗いざらい話し、上野さんはこれまでの半生を語る。そして現在はとある病で余命宣告を受けており酒タバコ厳禁の生活を余儀なくされていることを教えてくれた。

 

僕らはそれを聞いて酒とタバコを全力で止めたが「今日はええんや、お前らほど酒の進む面白い奴らはなかなかおらんからな(笑)」と言い、グラスの三分の一ほどあったウィスキーをあおるように飲み干して僕らに見せつけた。

 

翌日、大阪のライブハウスに向けて出発する際、上野さんは自身の経営するバイク屋のステッカーを4枚、僕ら一人ずつに渡してこう言った。「これうちのフリーパスやから、近く寄ったら必ず顔出せよ!」

 

僕らはその場で車から楽器を下ろし、たまじさんとエウヴィスはギターに、マッカスはウッドベースに、僕はスネアにステッカーを貼った。ゆっくりと走らせた車のサイドミラーには角を曲がって見えなくなるまで手を振り続ける上野さんの姿が写っていた。

 

ホームレスとバンドマンの違い

 

実家が消滅した僕はバンドマンでありホームレス。このツアー生活ではライブハウスだけが社会との接点なのでライブの日はバンドマン、オフの日はホームレスのつもりで過ごした。メンバーはそんな僕の境遇を面白がっていて「要は人の役に立ってるかどうかが境目だよな」とホームレスとバンドマンの違いを定義した。

 

大阪は茨木JACK LION、心斎橋KING COBRA、三国ヶ丘Fuzz、奈良NEVER LAND、和歌山OLDTIMEを回る。はじめての場所で動員こそなかったが関西の人たちはノリが良くライブは盛況でCDもそこそこに売れた。関西最終日でレーベル主催のイベントだった神戸スタークラブにはお客さんがたくさん来てくれた。

 

次の岡山CRAZYMAMA 2ndRoomまでは2日間のオフがあったため、それぞれが思い思いに過ごした。たまじさんはスケボー、マッカスはファンの子の家へ泊まりに行き、エウヴィスは車で1日中寝ていた。僕はブックオフの100円コーナーを漁り面白い小説を見つけるべく何時間も入り浸った。

 

まだまだツアーは中盤。たまじさんはサバイバルのようなこの生活を楽しんでいるようで、コインランドリーへ洗濯に行ったときは店内の電源を盗んで米を炊き、嬉しそうに食べてはじめた。

 

僕もお腹が空いていたので「ちょっとちょうだい」と声をかけてみたが「バカ野郎!俺の米だ!」と頑なに拒否。「電気泥棒がいます」と警察に通報したかったが、ツアーのスケジュールに穴を空けるわけにいかず思いとどまった。

 

オフの後は岡山CRAZYMAMA 2ndRoom、徳島JITTERBUG、高知CARAVAN SARY、愛媛サロンキティと回った。移動は車の空いている夜だったが瀬戸大橋の景色は壮大で、途中にある与島PAには100台近いフェラーリが夜な夜な集会を開いていた。

 

高知CARAVAN SARYのすぐ裏にある公園は寝泊まりするのに最高で居心地が良かった。また高知城の近くで発見した「ひろめ市場」という風情ある食堂街ではカツオの刺身600円をバンド金庫から払いメンバーで分け、はじめて旅行気分を味わった。

 

高知でのライブはたまじさんの髪型セットにかける時間が異様に長いので、僕はライブハウス内に必ずいるであろうたまじさん好みの可愛い女の子を探した。結果、対バンの社会人バンドでベースを弾いていたハーフ美女のサエがお目当てだった。

 

ライブになるとたまじさんは自分で作詞・作曲したラブソングをその子に向けて歌いはじめ、僕を不安にさせた。僕はその後ろでドラムを叩きながら「俺は一緒じゃないからな」というすまし顔でバックバンドを演じてみてせた。

 

ライブを終えて愛媛に向かうために荷物を積んでいると、離れたところからサエが潤んだ目でたまじさんを見ていた。こんな美女がたったアレだけで落ちるということに世界の広さを実感した。

 

マッカスの運転で愛媛に向かって出発。僕は助手席に、たまじさんは後部座席でタオルをかぶってすぐに寝はじめた。小一時間後バンドのHPをチェックすると「素直になれた」「空を見ればつながっている」といった内容のたまじポエムの更新が発覚。僕は自分のブログにバンドマンと付き合ってはいけない理由についてしんしんと綴った。

 

愛媛サロンキティを終えたら次は福岡CB。車のナビにライブハウスの住所を入れたら400kmほどあり愕然とした。愛媛県は八幡浜に港に車を止めて夜明けを待ち大分県佐賀関へフェリーで移動。そこから大分自動車道をひた走り福岡へ辿りついた。

 

福岡はありがたいことにお客さんの入りも良くライブ後、僕らの物販コーナーに行列ができた。CDにはメンバー全員でサインを書き、握手をしてお礼を言いながらさばいていると、えみりと名乗る若い女性が列の最後尾に並び「あんたら今日どこ泊っとうと?」と話しかけてきた。

 

僕は「大濠公園ですが何か?」と答えた僕は50%の確率で「今日うち来たら?」が来ると予想していたが案の定、えみりは「それなら今日、うち泊まったら?午前2時に天神のドンキホーテ前で待っとって!迎えにいくけん。」と話した。ツアー先での予期せぬ出会いは醍醐味の一つ。僕らは素直に甘えることにした。

 

集合時間が深夜2時と遅いのは、えみりが天神の風俗嬢だったからだ。その時間に仕事が終わるのだという。約束通りの深夜2時。言われた通り天神のドンキホーテ前に車を停めて待っていると、仕事を終えたえみりがやってきた。

 

えみりは笑顔でこちらに小走りで駆け寄ると「じゃあ買い物して帰ろ!」とドンキホーテに入り、僕ら4人分のマットレスやタオルケット、弁当やつまみお酒を値段も見ず大量にカゴへ放り込んだ。

 

「タバコはある?」と聞かれて「ある」と答えたが、彼女は僕ら4人が吸っているタバコをそれぞれカートン買い。「これでしばらく持つでしょ」と彼女はどこか満たされたような顔をつきで40000円を超える会計をサッと済ませた。

 

金額が金額だけに「ありがとう」と「申し訳ない」どちらを先に伝えたら良いのか迷っていると、えみりは「タクシー、家までお願い!」と荷物を僕らに預けて機材車に乗り込んだ。向かった先は地下鉄天神駅からほど近い海沿いのタワーマンションだ。

 

えみりは部屋に僕らを案内するとテーブルに食料をドサッと並べ「お弁当は一人2個以上食べてね♪」とまるでペットに餌を与えるようにふざけて見せた。僕らはそれぞれ2つの弁当をペロリと食べ終え、お酒を飲みながらえみりと話した。

 

天神のヘルスで働き始めたのは彼氏が作った借金を肩代わりしたため。本名は智子という名前でえみりという名は「ちゃんと化粧すると辺見えみりに見えないこともない」という店長の主観からついた源氏名だった。それでもえみりはその名を気に入っているそうだ。

 

借金返済後に結婚の約束をしている彼氏がえみりが住むことの家に訪れるのは月1度のみ。最近は泊まることもなく返済分のお金を受け取ったらすぐに帰ってしまうとのことだった。テレビボードの上に飾ってある赤ん坊の写真は4年前に離婚をした際、会えなくなってしまった息子。1年ほど前に街で元旦那と子どもを偶然見かけたときには、一緒に居た女性に「ママ〜」となついていたらしい。

 

「私、バカだよね」と少しふざけたような顔つきでえみりは身の上話を明るく語った。僕はえみりが気負ってしまうことのないよう、時折視線を外しながら真剣に話を聞いた。もう少しえみりと話をしたかったので缶ビールを1本空けようとするとマッカスはそれをさえぎるように「チャッピー、明日10時からラジオだから。もう寝よう」と言う。マッカスなりにえみりを気遣ったのだと思い、感心しつつ僕らは床についた。

 

翌日天神にあるソラリアプラザ1Fで生放送ラジオに出演した。MCの人から振られる話題にたまじさんが答えて進行していたので、僕ら3人は頷きながら座っているだけだった。ソラリアプラザはファッションビルで多くの人が行き交い公開ラジオということで立ち止まって観てくれる人もいた。

 

僕らの名前など知らないはずなのに芸能人と勘違いして手を振ってくる人たちの様子が滑稽で、僕は「お前ら、いつもありがとうな」のような顔をして手を振り返す遊びを一人で楽しんでいた。そんなことを何回か繰り返しているうちに観覧者の中にエミリを見つけた。エミリはブースの中を見てニヤニヤと笑っていた。

 

僕らはラジオを終えると「今日は早番でライブにはいけないから。お別れの挨拶をしようと思って」と話しかけにきてくれた。僕らは一宿一飯のお礼を伝えると彼女は「こっちこそいきなり誘ったのに来てくれてありがとう、あなた達を見てたら私も自由になれたような気がして楽しかった。全然そんなことないんだけどね」と笑った。

 

えみりが僕らと握手を終えると目の前の大きな通りの信号は青に変わり、彼女は交差点を渡り色街へと向かった。

 

終わりの始まり

 

九州を後にした僕らは関門海峡を渡って山陽自動車道をひた走り広島CAVE BEへ。ガテン系風のイケメンギタリストに恋をしたエウヴィス。自身のギターに「シンタロウ」とそのギタリストの名前をつけたことを告げるも「すみません、ガチなら気持ち悪いです」と派手な右ストレートに膝から崩れ落ちる。

 

ライブを終えて島根に向かう移動中の車内では「あいつその気もないくせにすごい褒めてきた」と女々しい口調でゲイの被害妄想炸裂。シンタロウが褒めたのはギターの演奏だったのだが、運転しながら「うんうん」と話を聞いてやっている自分に腹が立った。

 

山陰地方は出雲アポロ、米子ベリエと回る。米子に着いたのは深夜1時。付近で一軒だけ開いていたうどん屋でかけうどんを注文すると店主は僕らの風貌を見るなりニヤニヤ。「はい、訳ありうどんね。天かすはおまけだよ」と出してくれた店主の左目はつぶれていた。米子シャッター商店街の静寂、皆生温泉の廃墟とさびれた風俗街は僕の心を捉えて離さず、翌日のオフは僕の一存で米子滞在が決まった。

 

次の街はエウヴィスの故郷である福井だ。福井についてエウヴィスに聞いてみたところ「福井でサーフィンといったら俺か真木蔵人だったよ」と風呂敷を広げたが、携帯で調べてみると真木蔵人の出身地は東京都港区という記述を発見。

 

マッカス、たまじさんは大爆笑だったが、僕はこれ以上ないほどチープな嘘を餌に、他者からの承認という大物を釣り上げようとするエウヴィスの強欲さに恐れおののいた。

 

ハコの見た目から対バンまでハードコアづくしの福井CHOPでは、客こそ少なかったもののライブは好評で物販もたくさん売れた。しかし、故郷でのしょぼい凱旋ライブとなったエウヴィスは昨日とは打って変わって虚ろな目つきで心ここに在らず。先日のシンタロウを思い出してやさぐれているのかとメンバー全員で茶化してみたが見向きもしなかった。

 

ライブを終えて金沢に向かおうとカーナビに住所を入力していると、後部座席から「明日の昼、福井で寄りたいところがあるんだけどいい?」とエウヴィスの声。僕とたまじさん、マッカスは「?」と顔を見合わせたが、ライブハウスの入り時間である15時に間に合えば問題ないと申し出を快諾した。

 

エウヴィスの案内で寝床となる公園はすぐに見つかった。エウヴィスはずっと浮かない表情だったことからマッカスが気を利かせて「たまにはみんなで酒でも飲むか!」と切り出し、公園の街灯の下に集まってビールを飲みはじめた。話はツアー中に起きた面白おかしい話からやがてエウヴィスの過去に行き着いた。

 

しばらく沈黙を続けたエウヴィスだったが酒が入るにつれて少しずつ自分の過去を語り始めた。福井に戻るのは上京以来はじめてであること。幼い頃に両親が蒸発し、親戚をたらい回しにされながら虐待を受けて暮らしたこと。そしてこのツアーが決まった時、実兄から20年前に姿を消した父親の居場所を知らされたこと。

 

「どんな顔して会えば良いのかね…」と少し笑いながらふざけて語るエウヴィスの表情はこれまで見たこともないほど弱気で、この話が真実であろうことを物語っていた。

 

翌日向かったのはえちぜん鉄道の三国駅からほど近い小料理屋で昼時だったため何人かの客がいた。店はエウヴィスの父親らしき男性と奥さんであろう女性の二人で切り盛り。エウヴィスは父親をすぐに見つけるが、あちらは気づいてくれていないのが悲しかった。それぞれが定食を注文して父親の手が空くのを待つ。

 

そして定食を運んできた親父さんにエウヴィスは話かけた「父さん…」。すると親父さんは数秒止まり困惑したあと「ゆたか…?」と気づいた様子だった。そこからエウヴィスは言葉に詰まり何も話せなくなってしまう。

 

すると親父さんは「ちょっと待ってろ」と言い奥の座敷にエウヴィスを通してくれた。僕らはそのままテーブルで食事を続けたが、奥からエウヴィスと親父さんの声が聞こえてくる。内容は聞き取れなかったがエウヴィスは聞いたこともないほど優しい声で「会えて良かった」という言葉だけをしきりに繰り返していた。

 

小一時間ほど過ぎ、金沢のライブハウスへ向かう時間がやってきた。親父さんは再婚した奥さんと二人でエウヴィスを丁寧に見送り、僕らに「頑張れよ!」と声をかけてくれた。エウヴィスも「父さんまた来るよ、体に気をつけて」と言い笑顔で別れを告げたが、必要以上に上げた口角が言葉にならない心情を表していた。

 

 

別れの挨拶を済ませるとエウヴィスは早々と車に乗り込む。するとエウヴィスは走り出した車の窓から三国の街並みに視線をやり「こんなところに住んでたんだ」と一言。溢れた心から漏れたであろう言葉が車内にこぼれ落ちた。

 

車は北陸自動車道に入り海岸沿いを快調に進んだが、ほどなくして聞こえてきたのは後部座席でタオルをかぶって寝ていたエウヴィスのすすり泣く声。運転していたマッカスはそれに気づくと無言でスピーカーのボリュームつまみを大きく右に回した。車内にはリアム・ギャラガーの歌声が大音量で響き渡った。

 

その後は金沢AZ、新潟はオフを挟んでJUNK BOX mini、Z-1と回り僕らの1ヶ月半におよぶ長旅は終わりを向けた。残りの東北・北海道ツアーは別日程。ここからは関東を拠点に地方を数日まわるというゆるめのスケジュールに切り替わる。

 

新潟でのライブを終えて関越自動車道を時速140kmでぶっ飛ばしたところ3時間弱で帰京。大泉ICを降りてすぐのところにあったコンビニに寄ると、しばらく地方を転々としていたせいか東京の空気はひどく濁っているように感じた。

 

地方では「あそこは住むところではない」と東京の悪口を散々言いふらしてきた僕だが、このよどんだ空気はどこか懐かしく、何だかんだ東京が好きなのだということを気づかせてくれた。

 

メンバーを一人ひとりの家に下ろして深夜2時頃に解散。ただ実家の消滅した僕に帰る家はない。両親に電話をするも借金取りから逃げているせいか安定の「現在使われておりません」アナウンス。

 

とりあえず腹が減っていた僕は退職時に返し忘れたバイト先の鍵を使って厨房に忍び込み、適当な食材に火を入れて胃袋に詰め込んだ。そして、そのまま休憩室の椅子に座って休んでいるといつの間にか寝落ちしていて朝を迎えた。

 

出勤してきた店長に見つかり「何やってんだよ!」と怒鳴られる。「出勤かと思ってました」と適当に言い訳をブツけてみたが「お前先月で辞めたろ!」と正論で返される。僕は「そうでしたね、じゃあまた来ます」と言い残し店を後にして、あてもなく最寄駅の高円寺へと向かい駅前でタバコをふかす。

 

「日本一汚い鳩」の称号を授けるにふさわしい高円寺名物の汚鳩を見つめながら、この先について思案。とりあえず家を借りるしかないという結論に至り、駅前にあったアコムのキャッシュディスペンサーへ直行し30万を引き出す。続いてそのビルの1Fにあった不動産屋へ行き「敷金・礼金無し家賃5万円の部屋ありますか?」と聞いてみる。

 

「これ何かどうでしょう?」と紹介されたのは新高円寺に近いアパートで家賃は5.5万円、敷金1ヶ月の物件だった。考えるのが面倒だったので「はい、じゃあこれで」とポケットから30万円の札束を出し入居に必要な費用を数える。審査や鍵などは交渉して当日のうちに済ませてもらい即日入居が実現した。

 

手元に残った金は約4万。ここから生活用品を1日で揃えようとレンタカーを借りた。車でリサイクルショップをまわり冷蔵庫と洗濯機を手に入れようと物色をしていたところ、Rolandの88鍵電子ピアノがキズ有り3万円というのを発見。

 

以前からピアノを弾いてみたかった僕はその場で電子ピアノを購入。新居にピアノを運び込みレンタカーを返して家に戻るとそこにあったのは電子ピアノ・ドラム関連機材・着替えの入ったバッグが1つ。はじめて自分の頭がおかしいのではないかと疑った。

 

ツアー最中から更新していたブログにこの一連の不可解な出来事について綴ったところ数人のファンの方から連絡が入り、生活に必要な寝具やカーテンなどの物資を送ってもらうことに。ありがとうを通り越して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

家を借りた直後に裕子に連絡すると「私一緒に住もうと思ってたんだけど…一言あっても良かったんじゃない?」と苦笑いしていた。僕も実家が消滅したときに同棲を考えたが、これからも続くであろう不安定な生活に彼女を巻き込むのは気が引けたため、自分一人で暮らそうとツアー中に決めていた。

 

しかしその決心とは裏腹に、数日後に裕子が荷物を持って家にやってきて狭い1Kのアパートで一緒に暮らすことになった。おかげで僕の暮らしぶりは安定した。

 

とはいえ僕の生活は変わらず。その日暮らしの日銭を稼いでは毎日スタジオで練習を重ねた。ツアーを終える頃には1000枚作ったCDが600枚ほど捌けており、都心・地方を問わずイベントに呼ばれる機会も増え月10〜12本ほどのライブをこなす。それでもバンドの売上は月に20万程度。「これでいいのか」という不安と焦燥感だけが募っていった。

 

裕子とともに休日を過ごす日は月1日もなかったが、僕から見た彼女は明るく楽しそうに暮らしている様子だった。深夜に帰宅すると常夜灯の明かりの中から聞こえてくるのは「おかえり〜、今日どうだった〜?」という寝ぼけた声。

 

壁にぶら下がった小さなホワイトボードには作り置きの食事のメニューと、料理のこだわりポイントやその日の出来事などが簡単なイラストと共に綴られていた。

 

僕は裕子にこそ伝えていなかったものの朝起きて目に入るその日記を毎日楽しみにしていた。ただそれと同時に、ぼんやりとホワイトボードを見つめ「あの子の幸せは本当にこの部屋の中にあるのだろうか」と考えることも増えていた。

 

そんな中、事件は起こった。ある朝、いつものように裕子の書いたホワイトボードを眺めているとたまじさんから電話が入る。「おいチャッピー、やべえ!西原さんと全然連絡がつかねぇ!CDの売上も入金されてない!」。僕は瞬時に目が覚めた。

 

僕らのCD1枚あたりの売上は2000円×40%(僕らの取り分)=800円。アルバムはCDショップで約300枚ほど売れていたため受け取るはずの金額は約24万円。電話が入った時点で西原さんから指定された入金日は大幅に過ぎていた。

 

「とりあえず今から行くわ」と話し、たまじさんの住む下北沢で合流。西原さんの携帯に何度連絡するも出ないため名刺にあった住所へ突撃することに。

 

駒沢にあるマンションの一室にたどり着いたがインターフォンが鳴らないことから退去済みであると予測できた。同じレーベルのバンドにも連絡したが「俺たちも連絡つかなくて困っている」とのことだった。

 

「あのクソおやじ、マジかよ…」僕らはその売上を元に次作のレコーディング予定を組んでいたため、このまま未入金であればそれは僕たちの借金を意味する。帰り道ではいつもに増して足どりの重たさを感じた。

 

プロモーションを依頼するはずだったレーベルが飛び、レコーディングすらも危うい。西原さんを招き入れたのは僕の判断によるところが大きかったため余計に責任を感じていた。「とりあえず冷静になって1日考えよう」そうたまじさんと話をして、翌日のバンド練習までに軌道修正の策を二人で考えることになった。

 

20時頃帰宅すると、たまねぎを炒める良い匂いがした。「お、バンドマン発見!今日は珍しく早いじゃないか!」と裕子は夕食の支度をしながら明るく出迎えてくれた。僕が「おい、バンドマンの彼女!背中に後ろ指がささって血出てるぞ!」と返すと裕子は「知ってたんなら病院連れてけ〜!」とおどけて見せた。

 

そのやり取りに少し心がほぐれた僕は普段通りに夕食を食べ風呂に浸かり、ベッドに入った。僕がベッドに横たわりにながらバンドの今後について考えを巡らせていると、寝そうになっていた裕子が小声で一言「人間、死ぬ気になれば何でもできるんだよ。考えすぎは疲れるだけだぞ、と2つ上のお姉さんは言っておくよ。少年」。

 

「死ぬ気かぁ…」と僕は裕子の言葉を何気なく復唱した。するとスイッチが切り替わったかのように頭が冴え、途端に起死回生のアイデアが浮かびはじめた。興奮した僕は頭の中であ〜でもないこ〜でもないと策を組み立て続け、一瞬のうちに朝を迎えた。

 

僕が出かける準備を済ませた頃、少し遅く起きた裕子も支度をはじめていた。僕が家を出る際「昨日ありがとな…俺、死んでくるわ!」と告げて威勢良くドアを開けると「いや、死んだら意味ないから〜」という裕子の言葉がグラデーションがかって僕の背中を撫でた。

 

夢と言い訳とバンドマン

飛んだレーベル、消えた売上、レコーディングなどこれからの予定を軌道修正するために僕らは練習を終えたあと、いつも利用している三軒茶屋のファミレスに集まった。

 

ここ数日で起きた出来事をマッカス、エウヴィスに伝えると「バンドを食い物にする大人ってホントにいるんだな〜」とマッカスはどこか他人事のようで、エウヴィスはビールを飲みながらただ頷いていた。

 

西原さんが飛んだ訳は考えてみれば至極単純。前職のコネを使った小遣い稼ぎだ。若さを持て余した頭の悪いバンドマンを見つけてCDを出させる。バンドにはプロモーションだと全国ツアーを回らせ、自分は知り合いのCD屋に電話を入れて売り場を確保。

 

バンドが動けばCDは売れる。仕上げは数ヶ月後にやってくる流通会社からの入金を待ってドロン。今回、西原さんは電話1本で見事30万円を手にした。

 

また同じレーベルに所属とされていたアーティストは全国で5組。みな僕らと同時期にCDをリリースしていたことから西原さんはここ数ヶ月、電話だけでおそらく100万円以上の大金を稼ぎ出したことになる。

 

とはいえCD屋界隈で西原さんの悪評が立つことはない。知恵のないバンドマンの多くはただただ泣き寝入りするしかなく、事の真相が世に出る可能性は極めて低いからだ。僕らも例によって「やられた」以外に言葉を見つけることができなかった。

 

ついた肘に小さな顔を乗せて「問題はこれからどうするかだよな〜」とたまじさんが独り言のように呟いたところで、僕は事前に考えていたアイデアを話した。

 

次回のレコーディングは借金をしてでも決行。音源はCDショップを介さず会場限定販売にすること、その代わりツアーの本数をこれまでの2倍にあたる3ヶ月70本に増やす。そして翌月には間髪入れず3rdのCDを出してさらに30本のツアー。年に2回のリリースと100本以上のライブを行うという計画だった。

 

「それはさすがに無理だろ」と僕以外の3人は笑った。それでも僕はこのスケジュールでいこうと押し返すとたまじさんは「お前だって生活あるだろう、それにこれ以上借金するのは危ないよ」と現実を語り、マッカスは「焦る気持ちはわかるけどさ、無理せず地道に続けることも大事なんじゃないか」と諭すように話した。

 

そこから何も決まることはなく、僕らは普段通りの生活を送ることになった。アルバイトで日銭を稼ぎ、週2回のバンド練習をこなして、呼ばれたライブに出演する。そんなある日、ロカビリー界隈で有名なバンドのライブに4人で顔を出す機会があった。

 

新宿にある小さなライブハウスは満員かつ熱気を帯びていて薄暗いドリンクカウンターには長蛇の列ができていた。付き合いで来ていた僕らはステージと客席を見渡せる後ろの壁側に陣取りライブがはじまるのを待った。

 

SEが止んで登場したバンドのメンバーはバイトで溜まった鬱憤を晴らすかのごとくギラついた衣装に身を包んでいて、自慢の高価なグレッチのギターはキンキンの高音で客の耳をつん裂いた。合わせようのないほどヨレたドラムと視線を合わせてクールに微笑むウッドベースの間には、彼らにしかわからないグルーヴがあったのかもしれない。

 

最前列には見覚えのあるバンドマンたちが「最高に盛り上がってます!」と言わんばかりに存在感をアピールし、媚びるようなダイブに無理やり連れてこられた客は思わず後ずさり。「もっと来いよ!」とバンドが叫ぶ度に、後ろの壁側には仕事帰りであろう小綺麗な格好をした人たちが押し寄せフロアの真ん中には大きな穴が開いた。

 

僕が望まなかったアンコールでは、太鼓を持ちバンドマンの拍手と声がパラパラとフロアに鳴り響く。僕たちの行く末は、ステージの先にある楽屋でアンコールを焦らす古株バンドなのかもしれない。そんな思いが浮かんでは消えてやるせない気持ちになった。

 

ライブが終わって会場を出ると「おい、チャッピー営業だ」たまじさんは打ち上げ会場に向かって歩きながら僕を呼ぶ。僕は「大丈夫、放っておいてもあと何年かしたら俺らもああなるわけだから、今焦って打ち上げに出る必要はないよ」と答えた。

 

「何が言いたいんだよ」とたまじさんは面倒くさそうに振り返る。「大して名前も知られてないバンド同士で褒め合うだけの飲み会で何の営業するのかね。俺はもうさすがにここから抜け出したいよ」と僕が返すとたまじさんは黙った。

 

「この間のリリースとツアーの話、やってみようよ。どうせ全員まともに生きられないフリーターなんだから、その先どうなったっていいじゃないか。いい加減ここから抜け出さないことには何もはじまらないよ」と僕は続けざまに言葉を投げかけた。

 

僕が立ち去ろうとすると、その場に居合わせたマッカスが笑いながら言った「あれだけ弱気だったチャッピーがそこまで言うならな…やってみよか!」と開き直り、それに続いてたまじさんも「わかった、お前に任せるわ…」と賛同。エウヴィスはいつものように黙って頷いた。

 

そして僕はその足でスタジオへ、たまじさんとマッカスは打ち上げには出ず曲を作ると帰路に着き、賛同したはずのエウヴィスはなぜか打ち上げ会場へと向かった。

 

ーーー

 

CDを2枚リリースして年間100本のライブを自分たちだけでこなすということは金銭以外にメンバーの負担も重くなる。たまじさんとマッカスには曲作りに専念して欲しかったためライブブッキングやグッズ製作、スケジュール管理は僕が一手に引き受けた。

 

まずは知り合いのイベンターやライブハウスに片っ端から電話してリリースとツアーの予定を説明し、タイミングの合うところでイベントを打って欲しいと交渉を重ねること数ヶ月。イベントの日取りが決まれば、ライブハウスのブッキングだ。

 

初回ツアー70箇所のうちイベントを組んでもらえたのは20箇所。残りの50箇所はドサ廻りのブッキングライブだ。今回は沖縄以外のすべての都道府県をまわるつもりだったため、イベントと移動時間を考慮して無駄な日ができないようにスケジュールを組んだ。

 

結果、東京から九州にまでは24日連続でライブ。その後12連・7連とライブをこなして一旦帰京。都内にて10日間でレコーディングを済ませて再び東北・北海道を3週間ほどかけて回り、関東近県は東京の自宅から向かうという3ヶ月の強行スケジュールだ。

 

物販はライブ本数から逆算して用意。CDは1st500枚、2nd500枚、最初のツアーで完売したTシャツは200枚作って、ワンマンライブを収録したDVDは200枚用意。ライブ1回毎の売上目標はチケットバックと合わせて30000円に設定した。

 

バンドのスケジュールを見越して僕個人のスケジュールも大きく変えた。朝6時から倉庫作業のバイトを入れて11時からはテレアポ、20時に仕事を終えて21時から24時まではドラムの練習。ライブの日以外はほぼ同じスケジュールをこなして貯金した。

 

先の見えない未来と借金の重圧は怒りだけを残して僕の感情を奪い、その矛先はメンバーや裕子といった身内に向けられた。レコーディングでミスを重ねるメンバーには「何度目だよ。練習しとけよ」と怒鳴り、「お〜い、大丈夫か〜」と心配する裕子の何気ない気遣いは「関係ないだろ」と跳ねのけた。

 

ふと我に返り「何であんなこと言ったんだろう」と後悔する時は、睡眠時間を減らし練習時間を増やすことで精算する。そんな毎日が続く中、メンバーは萎縮してバンド内では1対3の構図が出来上がり、裕子とは口論になることも増えた。

 

ある日、仕事を終えて家に返りライブに向かう準備をしていたところ「ただいまくらい言いなよ〜」と裕子が声をかけてきた。僕がすぐさま「ただいま」と伝えると裕子は「もう次のツアー終わったら一回休めば?そんなんじゃ続けられないでしょ」と返す。

 

「何も知らないくせに先がどうとかよく言えるな」と僕は独り言のように呟いた。それを聞いていた裕子は「バンドってそんな人相変えてまでやることなの?」とこちらを向いて真面目な顔で尋ねてきた。

 

僕が苛立ちを抑えつけるように「もう行かないと」とかわして荷物をまとめていると「こんな生活いつまでも続かないよ」と裕子の気弱な声が聞こえた。そして次の瞬間、抑えていた僕の怒りは「だったら実家に帰んなよ」という心とは裏腹の温度のない言葉となって彼女のどこかに刺さった。

 

ふと裕子に見ると、あっけらかんとした顔つきで左斜め上に視線をやっていたが、その口元はかすかに震えていた。僕は沈黙に耐えきれず水を飲むため冷蔵庫を空ける。そこには四角く大きな白い箱、サランラップが巻かれた皿には下ごしらえされた食材が敷き詰められていた。今日は僕の23回目の誕生日だったのだ。

 

ーーー

 

レコーディングは予算の関係でタイトな日程だったが順調に進み無事に音源は出来上がった。ツアーも約半年間に渡って調整を重ねた末、全国70箇所のライブが決定。地方のファンの人はBBSに喜びの声を書き込んでくれたが、知り合いのバンドマンからは「お前らバカだろ」という反応が大多数を占めた。

 

周囲のバンドマンの話には「そうなんですよ〜」とヘラついてみせたが僕は異端とバカにされるほど「これで正解だ」という確信を得ることができた。それは夢と言い訳に満ちたこのぬるい場所から離れることができるという証だからだ。

 

レコーディングや制作費、演奏機材の購入、車の修理、3ヶ月間のツアー中の生活費を工面したことで僕の借金は通算150万円を超えた。しかし、すべての準備を終えてツアーに出る頃には多額の借金すらびしょ濡れの靴で歩く程度にしか感じなくなっていた。

 

何か奇跡が起こるのか。このまま何事もなく帰ってきて借金とともにアルバイトをしながら利息を払ってその日暮らしを続けるのか。夢と言い訳で生きてきたしがないバンドマンの僕らは、これからの3ヶ月に未来を賭した。

 

 

 

バンドマンと焦燥感

 

三軒茶屋から国道246号を進み東京ICから静岡方面へ向かう。24日間連続ライブの1日目は静岡サナッシュ、そこから東海・関西・中国を抜け九州は鹿児島LIVE TRAINまでオフはない。梅雨らしい五月雨は車内の沈黙と相まって僕の鬱屈とした気分を煽った。

 

70本のライブはすべて同じセットリストと決めていた。1曲目はポカンと口を開けて観ているが2曲目から三歩ほど前へ、3曲目には笑顔を覗かせ4曲目からは手振りやアクションが加わり、5・6曲目はタガが外れたように盛り上がって終演。それが僕らと客のライブだった。

 

ステージを降りたらすぐに物販席へ。客の人数によって売上は大きく左右されたが、ライブハウスでの僕らの仕事は案外ルーティンだ。

 

ただ、いくら客が盛り上がろうとも自分たちの演奏が良くなければ僕の気分は最悪だった。しかし、出来が悪いと思っている日に限って物販がよく売れるから面白い。前回のツアーで立てた「演者のエゴなど客はこれっぽっちも欲していない」という個人的な仮説は意外と正しかったのかもしれない。

 

名古屋のイベントはロックンロール界でも有名な老舗バンドの前座ライブだっため、僕らも客を集めた。エウヴィスは尊敬していたバンドとの対バンに興奮気味。楽屋では老舗バンドがどれほどすごいのかを熱弁していたが僕には少しも伝わらなかった。

 

僕らの出番前には舞台袖に老舗バンドのボーカル様がやってきて「お前ら相当ライブやってるらしいが曲ってのはな、千回くらいライブやってはじめて味が出てくるもんなんだよ」と有難いアドバイスをくれた。

 

「新曲やった方が良くないですか?」の一言が喉元まで出かかったところでたまじさんは僕の背中を強く押してステージへ追いやった。老舗バンドのおかげか会場は満員。僕らも大ウケして物販を含めると1日の売上が10万円をゆうに超えた。

 

しかし、大トリの老舗バンドが演奏する頃にはなぜかフロアは閑散としている。当日の動員は老舗バンドのおかげかと思いきやそうではなかったのだ。

 

結局は先輩である老舗バンドが後輩イベンターに無言のプレッシャーをかけ、無理矢理客を呼ばせていたイベントで、そのような事情を知る由もない客は名前すら知らない老舗バンドの登場を待たずに帰ってしまったというわけだ。

 

蓋を開けてみれば僕らの動員20名に対して老舗バンドは5名。人気のないフロアに鳴り響く後輩イベンターのアンコールは客として観ていた僕らをより一層気まずくさせた。

 

関西はイベントが1本しか入らずほとんどがドサ廻りのブッキングライブ。特に平日は客が5~6人という日が大半だった。泉南市にあるライブバーでその日の演奏を終えると、片腕のない老人が「お前にビールを1杯おごらせてくれ」と話しかけたきた。

 

「ありがとうございます」とお礼を言い、乾杯をして話を聞いてみるとその老人は戦後、米軍クラブでジャズを演奏していたドラマーだったそう。そして、不慮の事故によって片腕を失いドラムを辞めざるを得なくなってしまったいう過去を持っていた。

 

帰り際、その老人は僕の目をまっすぐに見つめ笑顔で言った「お前はいいドラマーだよ、まだまだ上手くなる。続けろよ」僕は技術コンプレックスだったが故に誰に褒められても素直に意見を受け取ることができなかった。しかし、その老人の背景からにじみ出た言葉は僕の胸に刺さり、帰りの車内では窓に顔を向け、声を殺して静かに泣いた。

 

10本のライブで40万円を稼いだ東名阪とは打って変わってイベントや客が減る中国地方より西のライブは困難を極めた。動員はあっても1人か2人。会場に客も少ないため売上は良くて10000円が精一杯だ。

 

広島ナミキジャンクションではブッキングが埋まらないせいか珍しく東京からのツアーバンドBoggie Junctionと対バン。モッズスーツに身を包み赤いリッケンバッカーを掻き鳴らす野村良平くんと綺麗なフォームでスマートにドラムを叩いていた田中宏樹くんは年齢こそ20歳そこらだったがその辺の大人と比べても頭一つ抜けていた。

 

ライブでドラムを叩いては演奏を止めていた20歳の頃の僕とは比べようもないほど二人とも優秀なミュージシャンで、その前途有望な未来は同じバンドマンとして嫉妬に値するものだった。

 

山口周南チキータのライブを終えて九州に入ることには疲労困憊。毎日風邪を引いているかのように体中の関節が悲鳴を上げていた。

 

熊本Djangoでは風邪薬を飲んでライブをしたエウヴィスが楽屋で倒れ唇を青紫にして軽い痙攣状態だったため、マッカスが水を飲ませようと近づいたが誤って顔の上にこぼしてしまう。ショック療法だったのだろうか、エウヴィスは水をかけられただけで復活。人間の体は意外と丈夫であることを知った。

 

食事は1日おにぎり3個までに減らしたが170円/ℓまで高騰したガソリンとタイトな長距離移動で使わざるをえない高速道路やフェリー代が資金をジリジリと減らし、九州を終えて大分の佐賀関から四国にフェリーで渡る時点で±0になってしまった。

 

少しだけ増えた知名度と引き換えにすり減っていくのは体重と金。体力と気力も限界を迎えた頃、新居浜Jeandoreで一緒だったのが僕らと同じスケージュールを数年に渡って繰り返しているモンスターバンド、MUSHA×KUSHAだった。

 

百戦錬磨のライブパフォーマンスは圧巻でツアー始まって以来、動員、客の反応、物販すべてにおいて完敗という状況を経験した。救いだったのは「このスケジュールを毎年こなしているバンドが実際に存在しているのだから自分たちなんて大したことはない」と思えたことで、いくらか気が楽になった。

 

以降、四国のライブハウスでは平日にもかかわらず奇跡的にブッキングに恵まれ物販の売上が伸びて資金的に少しだけ盛り返す。高松DIMEでライブを終えた後は翌日がオフということでバンド金庫から一人1000円のボーナスを支給して自由行動とした。

 

何しろメンバーと離れて過ごしたかった僕は一人で市内の製麺所に並んで300円のうどんを食べた後、ブックオフで100円小説を2冊買い、残りの500円で2ℓの水と夕食分のおにぎりを買って公園で本を2回ずつ貪り読んだ。日が暮れて本が読めなくなった頃、ふと裕子のことを思い出し電話をかけてみた。

 

数コールして裕子が出る。「おぉ、すげえ。出た」と僕が言うと「あの〜、おもちゃじゃないんですけど…?」と裕子。彼女は意図しなかっただろうが、久しぶりに聞いたその声は僕に大きな安心感を与えた。

 

東名阪は盛況だったがその資金が尽きたこと、運転中の睡魔に襲われて何度か幻覚を見たこと、片腕の老人ドラマーに褒められたこと。この1ヶ月間の出来事を話した。

 

裕子は「うんうん」としばらく話を聞いてくれた。小一時間は経っただろうか、話がひと段落すると裕子が「帰ってきたらどうするつもりなの?」と聞いてきた。

 

僕は「前にも話したけど帰ったらとりあえず10日間でレコーディングして後半のツアーに出るよ。秋口には今話をもらってるレーベルから1枚出すからその後もたぶん30箇所くらい回るかなぁ」と答えた。

 

「そっか。そんなこと言ってたね。その後は?」と裕子は続けて聞いてきた。僕は「まだ決まってないけどアルバム作るからまたライブ三昧だろうな。レーベルが中国の方にもツテあるみたいだから海外ツアーとか出来たらいいけどね」と答えた。

 

「忙しいねぇ。私はたぶん来年も朝起きて仕事行って帰ってご飯作って食べて寝る。たぶんそれだけ。」と裕子。やりたいことやればいいのにと勧めてみたが「私は普通に暮らすことが幸せなの」と返す。話の流れから彼女が何を言いたいのかくらい察しはついたがあいにく聞く度胸は持ち合わせておらずやや強引に話を逸らして終わらせた。

 

次の日からは兵庫・島根・鳥取・福井・石川・富山・新潟と7日間連続でライブ。秋に発売するCDのレコーディングを行うため1ヶ月半ぶりに東京へと戻った。といっても、休むわけではなく毎日昼間の6時間はレコーディング用の個人練習。夜はバンドでスタジオに入ってアレンジを固めた。

 

この1ヶ月半でこなしたライブは38本。CDやDVD、Tシャツなどの物販は順調に売れてはいたもののツアーの移動と滞在費でわずかに浮いた程度。代わりに全国各地からイベントの誘いが劇的に増え、次回の音源をリリースするレーベルも決まった。

 

端から見れば好調そうに見えていたようだが悲しきかな自分たちにそんな自覚は一切なかった。むしろ少しずつ名前が売れていくたびに「こんなもんじゃだめだ」と増していく焦燥感は厄介の源。

 

それに身を焼かれていった僕たちの口数はおのずと減り、レコーディングの日すら必要最低限の会話しか交わさず。険悪どころか無関心であるかのように、それぞれが黙って録音された音だけに集中していた。

 

ドラムを録り終えて部屋にあったソファーに座って飲みかけのコーヒーを口に含んだ。モニター越しに見るメンバーの表情は全員どこか切羽詰まっていて好きであったはずの楽器を演奏しているにも関わらず、そこに楽しさらしき感情はみじんも感じられない。

 

僕も同じ顔をして演奏していたのかと振り返ると、求められてもいない苦労を勝手に背負い込んで派手に不幸顔している悲劇のヒーローを演じているようで羞恥心が騒いだ。僕は目を閉じてスピーカーから流れる音に耳を傾け、邪念を払いのけようと努めた。

 

レコーディングを終えツアー後半に出発するまでの3日間は完全オフとした。裕子は旅行に行こうと言っていたが、僕はツアーで地方を転々とする生活を理由に挙げ家でじっとしていたいと断った。

 

とはいえ、くつろげるはずの自宅は落ち着かなかった。ツアー中は公園のベンチや寝袋に包まって人気のない道路の縁石で寝る日々を過ごしていたため、柔らかいベッドで寝ていると「ここはどこだ!」と夜中に何度も目を覚ましてしまうからだ。

 

朝起きて朝食を終え、窓をあけてタバコをふかす。天気はどんよりとした曇り。窓からは8月の生暖かく湿った風が流れ込んで肌にまとわりついた。この3日間は何も考えず穏やかに過ごすつもりだったが、僕にとってのそれは難しいものだった。

 

ぼんやりと外を眺めていると現在・過去・未来の嫌なイメージばかりが頭をよぎり、こめかみがジンジンと疼く。視野は次第に狭くなり心臓の奥でちりちりと何かが燃えはじめ、やがてその火種は大きくなり動悸となって僕の呼吸を乱した。

 

「口、空いてるよ…」裕子が半笑いで僕を見ていた。僕は「ん、腹式呼吸だ」とよくわからない答えを返して平静を装った。しかし、結局僕は家でじっとして居ることができずにドラムの練習へ行くことにした。

 

僕が出かける準備をしていると裕子は「なんか最近、苦しむことが目的になってない?」と少しトゲのある口調で話しかけてきた。僕はその一言に苛立ちを押さえきれず「何もやってないお前にわかるわけないだろ!」と声を荒げた。

 

裕子は俯き「練習、頑張ってね」と言い残して家を出て行った。裕子は翌日になって戻ってきたが何事もなかったかのように取り繕おうとする僕らの会話はどこかぎこちなく、身のある話は出来ぬまま時間だけが過ぎ出発の朝を迎えた。

 

本当は感謝の言葉を伝えて出たかったがありがとうの一言にも自信が要ると深読みして僕は口をつぐんだ。それではまずいと喉元から絞り出した言葉は「実家、帰っててもいいんだぞ」の一言。裕子は頷いたようで俯き、だらりと上げた手を振り僕を見送る。弁解をとすぐさま振り返るが話をするだけの時間も勇気も、僕には残っていなかった。

 

不幸を背負い込むバンドマン

 

ツアー後半初日、宇都宮KENTでは前回のライブが好評だったようで30名近い予約が入っていた。しかも、そのうちの9割が女子高生というから驚いた。ライブ後、僕たちが物販へ出るため楽屋のドアを開けたところ女子高生が左右の壁に並んでズラリと待機。

 

キャーという黄色い声といい匂いに包まれかと思いきやその大半はたまじさんとマッカスの前に群がった。僕の前に現れたのは大人しげな男子高校生で「弟子にしてください」とポツリ。僕はどうせなら女子高生に囲まれたかった気持ちも手伝って「よし、まずは立派な師匠を見つける目を鍛えるところからスタートだ」とボカして逃げた。

 

出待ちに気分を良くしたエウヴィスは先日3万円で買ったと自慢していたネックレスを外し女子高生の首にかけてそのままプレゼント。僕は女子高生のキラキラとした視線をうけるエウヴィスの背中に「可哀想」と書いたレッテルを勝手に貼った。

 

一方、たまじさんのファン対応は慣れたもので付かず離れずの距離感で上手く接していたが、マッカスは女子高生だろうが相手構わず下ネタを連発して僕を不安にさせた。

 

以降は水戸・仙台×2・盛岡・弘前・青森とライブは5連続。盛岡クラブチェンジの楽屋ではツアー前半に栄養カスカスの体で食べた塩パスタの美味さが忘れられず、持参した電気ポットで麺を茹で塩をかけて塩パスタを作った。しかし休み明けの満ち足りた体では味気ないの一言。毎日食事を作ってくれた裕子のことを思い出した。

 

弘前マグネットではMr.Children風のメジャーバンドと対バンだったがその客がこぞって僕らの物販に並んでいたため、メジャーバンドは偉く不機嫌な様子。次の日の青森クォーターは彼らのおかげで動員が安定した。

 

僕がクォーターの駐車場で寝転んで本を読んでいると「あ、チャッピーさんだ!」と声をかけられ振り向く。するとそこには口に手をあて恥ずかしがっている女子高生2人組の姿。だが手にしていたのはその素朴さとは不釣り合いな缶チューハイだった。

 

女子高生にアルコールは似合わないこと、色眼鏡で見ている僕らは東京でアルバイトをしているフリーターであること。この2つの誤りについて教師さながらの説教を垂らしたかったが、そんな勇気は持ち合わせておらず。「ありがと〜」と明るい声で答え手を振りながら楽屋へ引っ込んだ。

 

青森市から津軽海峡フェリーの最終便で函館へ向かう。船内は疲れ切ったトラックの運転手たちが大の字になって広間で寝ていた。到着時刻は午前2時半にも関わらず空はうっすらと明るく、函館から札幌に向かう300kmの道中は朝焼けとともにこの世のものとは思えないほど幻想的で壮大な景色が広がった。

 

札幌では友人宅にメンバー全員で1週間滞在。市内4箇所でライブを行い北海道を後にした。秋田クラブスウィンドル、酒田ミュージックファクトリーを終えて新潟へ。その後は長野市・松本市と続き山梨・群馬へ。そこからさらに静岡・愛知・大阪で10本ほどライブ。全員が気だるい体を引きずりながら深夜の高速をひた走る日々が続いた。

 

「そろそろ運転代わろうか」以外にメンバー間で言葉が交わされることはなく、僕は後部座席にもたれ天井一面に張り付いたライブハウスのバックパスを眺めながら運転の順番が回ってくるのを待った。

 

清水JAMJAMJAMで69本目のライブを終えて1ヶ月半ぶりに東京へ戻ったのは午前1時。5時間後の朝6時からは次に発売するCDのPV撮影がはじまる。そしてその後はツアーファイナルのワンマンライブが新宿で控えていた。

 

体調が最悪な上に完全な睡眠不足。この状態で2時間のライブをやりきることが出来るのか不安だった。早めにリハーサルを終えてしばしの休憩。楽屋のソファで仮眠をとり、目覚めた頃には客入りがはじまってあっという間に開演時間がやってきた。

 

SEが止んでステージに上がるとフロアはたくさんの客で溢れ返っていた。意外だったのは前列を陣取っていたのがいつもの顔ぶれに加え今回のツアー先で出会った地方の人たちだったこと。ステージから見て斜め左45度の方向には裕子が笑顔でこちらを見ていた。

 

そして何より驚いたのは僕にバンドをはじめるきっかけを与えてくれた山岡さんが腕を組んで壁に寄りかかっていたことだ。

 

4つカウントを入れて何百回も繰り返してきたいつもの曲がはじまる。僕はライブではミスをしないよう冷静に演奏してきたがこの日はきっと感情が高ぶっていたのだろう。

 

ドラムの位置から見えるのは演奏しているメンバーの息遣いや音響スタッフ、我先にと踊り狂う人、手を叩いて笑顔で見ている人、ステージから視線を外さずに黙って見ている人、泣いている人。僕の目にはフロアにいる全員の表情や仕草がスローモーション映像のようにゆっくりと流れていた。

 

演奏がはじまると疲労感は抜け、いつもよりリラックスできて気分が良い。しばらくすると鼻の奥がツーンと痛み、感情と切り離された意図しない涙が溢れて止まらなくなった。滝のように流れる汗に涙は隠れ、僕はそのまま気持ち良く演奏を続けた。

 

ふわふわと浮いているような感覚に陥りながら視界に入ったお客さんにはスネアを叩くと同時に心の中でありがとうを唱えて回った。最後の曲はエンディングへ。両手を振り上げて少し止め、深呼吸と同時に左右のクラッシュシンバルへ振り下ろして終演。

 

ライブ後の癖ですぐに物販席へ向かったが手売りした2ndCDやTシャツ、DVDはファイナルを待たずにソールドアウトしていた。売るものがないため、来てくれたお客さんを物販席から一人ひとり丁寧に見送り僕らの全国70箇所ツアーは幕を閉じた。

 

ライブハウスとの精算を終えて今回の全国70箇所ツアーの売り上げを計算してみると物販、チケットバックと合わせて約200万円。そこから交通費や滞在費、制作費の支払いを差っ引き手元に残せたのはたったの50万円だった。

 

打ち上げには山岡さんや裕子などの身内も参加した。「たまじ、佐藤くん。良いバンドになったな〜!」と興奮した山岡さんは僕とたまじさんの横を離れなかった。山岡さんはバンド脱退直後に僕と同じバイト先を辞めていたので会うのは実に3年ぶりだ。

 

彼は僕らのバンドを脱退後、紆余曲折の末、今は1000人近い客を集める人気バンドのベーシストとして活躍しているとのことだった。

 

一通り山岡さんとの話が落ち着くと彼はビールジョッキをテーブルに置き「来月、俺も川崎クラブチッタでワンマンやるで。たまじと見に来たらいいわ」と財布からチケット2枚を取り出し真剣な眼差しで僕に迫った。

 

おそらく何かしらのテレビドラマを意識したであろうセリフ。そして「ゲストで名前書いておいたから」の一言で済む話に対してわざわざチケット手渡しの演出を加えるあたり、有名になってもこの人の性根は変わらないのだと安心した。

 

あいにくその日は僕らも地方でライブが入っていたため行けそうになかったが、その場で断ると角が立つので「わかりました」と僕もトレンディー俳優さながらの口調で答え、固い握手を交わすところまでサービスした。

 

打ち上げ会場を出て新宿から中央線で高円寺へ。裕子と二人でパル商店街をふらふらと歩いて家路についた。しかし、大人4人が3ヶ月かけずり回ってたったの50万しか稼げなかった現実をうけ、僕の足取りは沼にハマったかのように重かった。

 

「またずいぶんと不幸を背負い込んだ顔をしているそこのバンドマン、一体何がそんなに不満なんだね。相談してみなさい!」と裕子がふざけて言う。僕は「すげえ顔だなそれ。逆に相談があればどうぞ」と適当に投げ返す。裕子は少し考えた後、やけに明るい口調で話し始めた。

 

「じゃあ一つ相談。同僚がバンドマンと付き合ってまして。でもその子、年も年だしそろそろ結婚考えてるらしいんですよ。私も働けば良いって、健気でいい女でしょう。そこでバンドマンに質問。バンドマンと結婚するのってどうなのでしょうか?」

 

「それは止めるべきだな〜。そもそもガチのバンドマンで幸せそうな奴なんて全国回って一人も見当たらないんだから。結婚はできるだろうけど一緒に居ても幸せになんてなれないよ」僕はこれまでに聞いたこともない裕子の同僚に向けて素直な意見を伝えた。

 

「そうですよね〜。バンドマンとの結婚は全国的にやめといた方がいいらしいよって伝えておきますね。ありがとうございました!」と裕子。天気予報みたいでわかりやすいアドバイスだと笑い合った。

 

いつのまにか出来ていた目に見えない薄い壁一枚を隔て、取り繕うようにふざけ合った僕らの会話は、笑い声の残響とともに途切れ、閑散としたアーケード商店街には靴のかかとを引きずって歩く乾いた音だけが鳴り響いていた。

 

翌日から僕は次のツアーに向けて準備をはじめた。まずは経済状態を回復させるため事前に検査を受けて予約していた1週間泊まり込みの新薬実験に参加。服薬と1日に数度の採血を受けるだけで15万円が手に入った。

 

ただ治験というクリーンな告知に集まった参加者は目つきの怪しい者ばかり。1週間後に現金を受け取り池袋駅へ向かうと、そこには封筒を握りしめてパチンコ屋に入っていく者や意気揚々と風俗街へ消えていく者たちの姿。

 

夢追い人という点では共通している僕も世間様からすればきっと同じように見えるのだろうと僕は雑居ビルのガラスに映った自分と目を合わせた。以降はいつものように日銭を稼いで2ヶ月後に控えた次のリリースとツアーに向けて夜な夜なスタジオに篭る。

 

ただ、練習を重ねるほど自分でもわかるくらいに僕の神経はすり減っていった。バンドリハではズレてることに気づかないまま演奏を続けるメンバーに激しく嫌悪しスティックを放り投げて帰宅。借金を抱えているにも関わらず、あれが楽しいこれが面白いと焦りすらないままのんべんだらりと過ごすメンバーとは喧嘩が絶えなかった。

 

家に帰れば気を遣って過ごす裕子にイラつき、モメそうになると部屋を出て寝静まるまで街を練り歩いた。すると裕子はさらに気を遣ってかしばしば実家へ戻るように。しかし、見返りのない犠牲の先払いを努力とすり替えた僕は、一つまた一つと物が減っていく部屋の景色を憂うことすら許さなかった。

 

また明日

 

倉庫作業の日雇いアルバイトへ向かうため、アパートを出たのは午前7時。どんよりと曇った空の下を歩き、冬の気配をすぐそこに感じながら電車を乗り継いでお台場へと向かう。

 

作業員を現場へ運ぶためのバスの乗って目に入ったのは、カサついた肌に白髪混じりの髭をたくわえ、生命を維持するために安いパンを頬張る初老の男性。ビジネススーツに身を包み、残り少なくなった毛髪をムースで固め、緊張した面持ちで席に座っている中年男性は、リストラを家族に言い出せずにいたのかもしれない。

 

作業ユニフォームが支給されているわけでもないのに、作業員たちの服装は地味でくすんだ色合いが多く、その様は作業員それぞれが抱えるねずみ色の暮らしぶりを連想させた。ご多分に漏れず僕が着ていたパーカーの色もグレーだったが、心の中では若さだけを武器に一人抗った。

 

交通費を差し引いて6750円の日銭を受け取ることが目的だから、名前ではなく番号で呼ばれることに僕は何の抵抗も示さなかった。しかしながら、父親と同い年ほどの男性が、社会に出たばかりの若僧に番号で呼ばれ、ゴミやらカスやらと罵られながら額に汗して働く姿は、決して眺めの良い景色ではなかった。

 

労働を終えて手にした封筒を二つ折りにしてジーンズの左ポケットへ詰め込み、足早に駅へと向かう。中野駅で降りてメンバーが乗ってきた車から楽器を下ろし、中野サンプラザ地下にあるスタジオに入った。

 

疲れ切った体に止まるアイデア。会話らしき言葉が交わされることはなくコミュニケーションはスティックとスティックがぶつかる乾いた音のみ。ホワイトボードに書いたセットリストをなぞるだけの無意味な2時間が過ぎた。

 

誰もいない部屋へ戻れば電気をつけることさえ億劫で、暗闇の中で服を脱ぎ投げ捨てシャワーを浴びてベッドに横たわる。ふかしたタバコの葉っぱがクスクスと燃え、やや湿った音は心地良く、数時間後やってくる大阪行きの迎えの車をうつらうつらと待った。

 

大阪でのライブは客入りもよく物販も売れて黒字が出た。しかし、客前で振りまく笑顔とは裏腹に帰りの車内は見事なまでの沈黙。深夜の名神高速をしばらく走っていると助手席にいたたまじさんが「チャッピー、次のサービスエリアで休憩しようか」と含みをもたせて提案してきた。

 

寝ていたマッカス、エウヴィスを起こし全員で車を降りて大津サービスエリアのフードコート前にある椅子に座り、紙コップに注がれた無料のお茶を啜りならが深夜のミーティングがはじまった。

 

「今後のことだけどさ…今年は結構動いたし次のツアー終わったらちょっとペース落としてゆっくり曲でも作ろうか」とたまじさんが切り出す。「俺らにゆっくりやってる余裕なんかないでしょ」と僕は食い気味に遮った。

 

マッカスは「このまま全国をライブで回り続けて死ねたら最高だけどさ、このままじゃ誰かの人生終わってもおかしくないよな」と言ったが、僕は「終わってもないのに終わりを気にする余裕があるってことはまだまだいけるってことだよ」と跳ね除けた。

 

たまじさんとマッカスは目を合わせクスっと含み笑いをしながら「じゃあお前はどうしたいんだよ」と迫る。「100本ライブやっても皆生きてるんだから次は200本だよ。レーベルも中国ツアー組めるって言ってたし海外行ってみてもいいし」と返した。

 

「そりゃ無理だろ、そんなの確実に全員アウトだよ」とたまじさんは笑った。「そもそもアウトになって終われるなら本望でしょ。人生かけてやろうって誘っといて今になって何をビビってんのよ」と言うとたまじさんは呆れ顔で黙った。

 

「チャッピーの言うこともわかるけどさ、俺は売れるよりもずっと続けることが大事なんじゃないかと思うよ」とマッカス。それでも僕は「それならドラムは俺じゃない奴を探した方がいいよ、俺は一生ダラダラ底辺バンドやってられないわ」と突き返す。

 

たまじさんは「それがお前の成長かもしれないけどな。正直、話にならねぇ」と吐き捨ててその場を去り、僕らもつられて車に戻った。エウヴィスは会話に参加するフリをしながら眠気と戦うことに精一杯で、いつものように最後まで何も語ることはなかった。

 

刻一刻とツアーの日は近づき、2日後には再び東京を出る。僕は日雇いの仕事で少しずつ貯めた小銭をかき集めベッドの上に並べて、帰ってくる頃の生活への被害は電気とガスが止まる程度という苦し紛れの算段をつけた。

 

21時、部屋の薄いドアをコンコンと叩く音が聞こえた。ドアを開けてみるとそこには仕事帰りの裕子が立っていた。1ヶ月ぶりに会った裕子は少し痩せたように見え、ここを出た後に買ったであろう淡いピンクのコートが別人のような雰囲気を漂わせていた。

 

「明後日からまたツアーかなと思って…荷物取りに来た!」と裕子。「おぉ、入れよ」と部屋に通し、僕は無言でベッドに戻って両手で顔を覆い金策を練るフリをしながら「おい、そこのバンドマン!」といういつものツッコミを待った。

 

ツッコミに備えストンとオチのつく貧乏話を用意し裕子の笑顔を想像していたがいつまで経っても声は聞こえてこなかった。僕は顔を覆っていた両手を外し、カチャカチャとCDの棚を整理する裕子に目をやった。

 

裕子が「これ!持って行っていい?」と振り返って見せたのは裕子が買ってきたクラムボンのシカゴ。浜崎あゆみが好きだった裕子と洋楽かぶれだった僕が唯一共通して聴くことができたCDだ。

 

「ん、いいよ」と答えると「これは?」と再び見せてきたのが僕が買ったWeezerのGreen Album。洋楽に興味のない裕子だがIsland In The Sunだけは気に入ったらしい。迷ったが「あ〜、いいよ」と許した。

 

それ以降も部屋をゴソゴソと探し回っている裕子。「もうそんなに荷物ないんじゃないの?」と話しかけると、裕子は僕に背を向けたまま言った。「そうなんだけどね。でもここに来るのは今日で最後にしようと思うから」。

 

心臓がドクンと大きく1つ脈打った衝撃で呼吸が止まっていることに僕は気づいた。「ん?」と聞こえてないフリをすると、裕子はまだ振り返らずに言った「本当はずっと一緒に居たかったんだけどね」。悔しさが滲んだその声色に僕は目を泳がせ「そっか…」と口を尖らせたまま呟くことしかできなかった。

 

「バンドマンでもフリーターでも何でも良かったんだよ」と背中越しの笑顔で裕子は話を続けた。僕は「そっか…」と続けて相槌を打った。

 

「高校生の時のまんまなんだけどな」と過去を振り返る頃には肩が震えていて「でも7年も経ったらお互い大人になるのは当たり前だしね」と言葉に詰まる。「ここから先は…もう…一緒には…居られないんだよ」と、最後に絞り出した声は一人抱え込んだ挙句、行き場を失った悲しみのそれを帯びていた。

 

何か気の利いた言葉をと僕は小刻みに何度か頷きながら足りない頭で探したが、中途半端な未来の約束の他に思いつくことなどなく、差し出した右手はだらりと不甲斐ない。

 

「もう!それバンドマンの挨拶じゃん!」と笑いながら鼻を赤くした裕子は僕の手を取る。寄り添った裕子からは外から連れてきたであろう小忙しい街の匂いと、この部屋にはない、新しい柔軟剤の香りが漂っていた。

 

荷物をまとめ終えた裕子は「じゃあ、行くね」とベッドに横たわっていた僕の足を遠慮がちにつついた。僕は起き上がり「荷物あるし駅まで送っていくよ」というと「あ〜、大丈夫!玄関でいいよ。青梅街道からタクシー乗っちゃうから」と裕子。

 

僕は青梅街道まで持とうと裕子の荷物を持ったが「ここでいい!」と裕子は頑なに拒んだ。いつものように身支度を済ませブーツを履き「じゃあね」の声が重なりお互いに手を振る。開け放ったドアはいつもより戻りが早く、裕子の姿を徐々に隠していった。

 

直前に交わした言葉が「いってきます」でないことを除けば、それは日常のやりとりそのものだったが、僕は建てつけの悪さから枠に引っかかってしまったドアをいつまでもガチャンと閉めきれずにいた。

 

ーーー

 

2日後、3rd CDのリリース日を迎え、僕は何事もなかったかのように機材車へ乗り込み東名高速をひたすら西へ。過去2回のドサ廻りが実を結び、今回のツアーからはどこのライブハウスを回っても客席はそこそこに埋まっていた。

 

会場やCDショップの売上も過去最高を記録。昼間はCDショップへの挨拶廻り、午後はリハーサルをしてライブ本番。終演後に客と戯れた後はイベントの打ち上げに顔を出し、終われば車に帰って沈むように寝ては移動する日々を繰り返した。

 

セールスが好調だったため、かねてから持ち上がっていた海外ツアーの企画もレーベルを通じて動き出し、次回作からはレーベルが予算をかけて僕らをマネジメントするという話も進み始めていた。

 

ただ周りの評判とは裏腹に充実感や満足感といった類の感情に浸るれるほどの余裕は僕らに残っておらず。その身はもはや「売れたい」などという実体のない希望的観測ではなく、毎月確実にやってくる返済日への怯えと、常に今を超える出来と成長を記録し続けなくてはならないという焦燥によって支えられていた。

 

ツアーは東名阪から中国地方を抜けて九州。折り返しは山陰から関西を経由して北陸へと一心不乱に駆け抜けて東北地方をまわる。仙台でのライブ後、帰り支度をしているとたまじさんは話があると勾当台公園にあるステージ前に僕を呼び出した。うっすらと外灯に照らされたベンチに座りたまじさんは言った。

 

「いきなり悪いな。いやさ、この先のことをまずはお前と話しておこうと思ってな。エウヴィスとマッカスはどちらにしても乗るから。俺らで決めて話せばいいよ。お前はこの先どうしたいと思ってる?」

 

僕は答えた。「レーベルからお金だって出るみたいだし、来年もう一度勝負かけてみたいと思ってるよ。あと1年乗り切れば何とかなると思ってるよ。」

 

「そうか、それもアリっちゃアリだな。でもお前知ってるか?エウヴィス、金なさすぎてもう家も無いんだぜ?マッカスはだいぶ前に家引き払って変な女のところに転がり込んでるよ」とたまじさん。はじめて聞く話だった。

 

たまじさんは続ける。「俺もな実は3ヶ月前から家賃滞納しててさ、退去勧告スルーしてツアー出てきたんだわ。帰ったらどうなってるか楽しみだぜ。お前だって結構焦げてんじゃないのか?」僕は持っていた3社分のカードが限度額に達し借金不可能の状態であることを話し、たまじさんは小さく頷いてさらに続けた。

 

「俺の正直な意見はここで一旦ストップだけど、一番年下でクソ下手だったお前がその状態でやろうって言うんだったら俺だって引き下がりたくはないな。チャッピー、そしたらお前の意向通りにやる代わりに一つだけ俺の条件を飲め」

 

たまじさんの出した条件はこれまで僕が担当してきたライブブッキングやレーベルとの窓口など裏方仕事をたまじさんに譲るということ、そして僕は空いた時間に練習でも仕事でも好きなことをやるという内容だった。

 

その思惑は僕の負担を減らしてバンドメンバー全員が良い人間関係を築けるようにすることだとたまじさんは語った。僕はわかったと頷き、たまじさんと一緒に車へ戻った。

 

帰り際、たまじさんは言った。「チャッピー、お前はあの頃と比べて想像つかないくらい上手くなったよ。何も言わないけど俺ら全員、お前がドラマーで良かったって思うこと結構あったりするぞ。俺はお前と組んで正解だったと思ってるよ。」

 

意思に反して緩んだ僕の心は真顔を保てず、僕は怒るでも笑うでもなくどちらかというと困惑に寄せた顔つきで「あぁ、うん」と漏らす。たまじさんはそれを察したのか、握手を交わした後に僕の背中を強く叩いた。

 

ツアーは佳境へ。東北から南下して甲信越・関東地方をまわり、今年100本目となるツアーファイナルのワンマンライブを迎えた。たまじさんと話をして以降、メンバー間には会話が戻りはじめ、ワンマンのリハーサル中にはMCを繋ぐためのインストを即興で演奏しながら無邪気に音を重ねて遊んだ。

 

本番はこれまでに感じたことがないくらい高揚感に包まれていた。演奏中はメンバー全員が何度も目を合わせ笑い合う。満員の客席は異様な盛り上がりを見せていて、薄くなっていく酸素すら気にならず。僕はステージの垣根を飛び越えてフロアと一体になる不思議な感覚を味わった。

 

2回目のアンコールでは全員で色違いのバンドTシャツを着用。僕がステージへ出ようとすると「おい!チャッピー待て、こっちこい」とたまじさんの声。全員が輪になって集まると「今日はめちゃくちゃ良いライブだな〜!」とたまじさんは満面の笑みで言い、右手をエウヴィスの肩へ。

 

エウヴィスは照れ笑いを隠すようにサングラスをかけて頷き、無言でマッカスの肩に右手をかける。マッカスは「長かったな、もうビール飲みてぇ!」言いながら僕の肩を取り「まだ終わってないから!」とツッコみながら僕はたまじさんの肩に手を回した。

 

そのままの勢いでステージに上がる。ラストは僕たちがはじめてのスタジオで音を合わせた際、出来の良さから1st CDのリードとした曲を演奏した。視界にあるのは沸き上ったフロアと全力で歌い奏でるメンバーの背中。僕はその景色を焼きつけるため、静かに目を瞑った。

 

ライブ後はお客さんを送り出し打ち上げへ向かうが、全員が疲れ切っていたため早めの解散。別れ際「とりあえず来週、いつものとこ集まってミーティングでもするか」とたまじさんは言い、全員が帰路に着いた。

 

水曜日、約束の17時。若林にある環七沿いのガストに着いたのは定刻通りだ。ふと店内をみると、限りなく時間にルーズな僕以外の3人がすでにテーブルに揃っていた。

 

「お疲れ〜」といつものように気だるい挨拶を交わし、メンバー同士の何気ない談笑がはじまる。しかし、いつも通り会話をしているはずなのにマッカスとエウヴィスの様子がどこかおかしい。僕と話しているはずなのに時折たまじさんの方に目をやる二人。

 

小一時間ほど過ぎて会話がひと段落した頃、たまじさんが沈黙を破った。

 

「チャッピー、お前に言わなきゃいけないことがあるんだ」悪いニュースであることは容易に想像できた。「何?またレーベル系?」僕がそう尋ねると、たまじさんは僕の目を見て真面目な顔で言った。

 

「DRAWSはこの間のライブをもって解散だ」

 

僕はその意味をすぐに理解できず、たまじさんから視線を外し考える。起きた状況を把握する頃には、頬杖をついた手の先が小刻みに震えていた。

 

「騙すような形になってしまって申し訳ない。でも、もう決まったことなんだ」とたまじさんは続けた。マッカスとエウヴィスはおそらく事前にこのことを知っていたのだろう。驚いている様子は皆無だった。

 

腹の底から笑いが込み上げてきた。「なんで?」と僕はハッハッハッと肺から漏れる息を抑えこみながら聞いた。

 

「このままの状態でバンドを続けるのは不可能だからだ。来年どうなろうが結果を持たずに全員終わるのは明白だ」とたまじさんは答えた。

 

ただただ笑いが止まらなかった。夕食時の店内で客の視線が一気に集まったがそんなことはどうでもよかった。押し黙った3人を前に僕はテーブルを叩いて呼吸困難になるくらい一人で笑い転げた。

 

笑いが落ち着くと自分の顔からスッと表情が消えていく。次の瞬間、濁流のように押し寄せてきた感情は怒りのように明らかなものではなく、僕はどす黒い何かを喉元から吐き出すように「何でお前が決めるんだよ」とくぐもった声で凄んだ。

 

たまじさんは淡々と答えた「俺がお前を、それからマッカス、エウヴィスを誘ったからだ。全員で話して決めたかったがこんな形になったこと、本当に申し訳なく思ってる。人としての生活が崩壊していく中でこれ以上続ける度胸が俺にはなかった。すまん。」

 

僕はタバコを咥えて黙った。たまじさんは話を続けた。僕が冷静に話せる状態ではなかったため、悩んだ末に強引に決めてしまったこと。裏方仕事を代わったのはツアー後の予定をキャンセルするためだったこと。僕と裕子が別れた翌日、裕子からたまじさんに連絡があり僕を止めて欲しいと頼まれていたこと。マッカス、エウヴィスにはツアー中に合意をもらっていたこと。

 

たまじさんが一通りの話を終えた頃、僕はテーブルの上に置いたタバコと携帯をジーンズのポケットへ乱暴に突っ込み、そのまま立ち去ろうとした。すると、たまじさんは僕を呼び止めて言った。

 

「チャッピー、ありがとうな。俺はお前と組んでなかったらここまですら来れなかったし、その辺で適当なバンドマンやってたと思う。それから、俺はお前の努力を本当に尊敬してる。お前はきっと、今よりもっと凄い奴になれると信じてるよ」

 

背中に向かって発せられたたまじさんの言葉を振り払い、僕はその場を後にした。店を出てから環七をひたすら北へ歩き高円寺へと向かった。その足取りはふわふわと浮いているように軽い。さして気分は悪くないが、帰ったら何をしようなどと考えられるほど楽観的でもなかった。

 

宮前橋からふらふらと坂を登って新代田を過ぎる。斜に構えて無気力だった大学時代、ライブハウスでの挫折、メンバー募集のチラシを貼り歩いた夜。歩みを進めるに連れてここ数年の思い出が浮かんでは消えていった。

 

甲州街道を渡って方南町を越える。はじめてできたファンの子、試聴機に入ったCD、客が2人しかいなかったツアー先のライブ、ガス欠に怯えた深夜の山道、満員御礼のワンマンライブ。

 

思い出巡りにも飽きた頃、誰かと話したいという猛烈な欲求に駆られ、手にした携帯の着信履歴から探していたのは、そこにあるはずのない裕子の名前だった。詰まるところ女に頼りきっていたのかと思うと情けなさにまた笑いが込み上げてきた。

 

部屋に着いて隅に座り込む。目に入ってきたのは冷蔵庫に貼られた可愛らしい犬のマグネット、キッチンには調味料を整頓するためのラックと大量のタッパーが積まれていて、テレビ台には裕子が忘れていったであろうウサギやクマの小物雑貨。吊るしてあったホワイトボードの字は消されていたが、うっすらといつしかの献立が滲んでいた。

 

僕はずっとそこにあったにも関わらずそれらが目に入っていなかったことに驚き、またこの上なく滑稽に思えて「そりゃいなくなるわな」と独り言。目を伏せるように転がったベッドでいつしか眠り、悪夢にうなされて目覚めたのは午前0時だった。

 

部屋の静けさが悪夢の余韻を煽る。僕はその場に居られずプレイヤーに適当なCDを入れてイヤホンを耳へ放り込み、人で賑わう高円寺駅を目指して足早に家を出た。

 

高円寺駅前ではそこらのライブハウスで中指を立て、ひとしきり叫び終えたカラフルなパンクスがコンビニの灯りに群がり缶ビールを喰らって道端で眠る。僕は駅前から伸びる大通りの縁石に腰掛け、ボブ・ディランをBGMにそれを見ていた。

 

パリッとした会社員カップルがコンビニの前を通り、振り向き囁き合っては家路を急ぐ。男は「あれ、高円寺名物だから」女は「え、やば〜い」と僕は二人の会話を勝手に想像しながら、会社員どころかバンドマンの肩書きすら失った自分を咎めた。

 

イヤホンから流れてきたのは大好きな「Like a rolling stone」で、僕の手は自然と膝を叩き、踵は地面を踏んだ。沁み入る名曲に心は踊り、当てた8分は心地よく、アイデアはとめどなく溢れ出す。

 

How does it feel!とサビに向けてのフィルをキメ、曲が最高潮の盛り上がる頃に聞こえてきたのは、嗚咽交じりの金切り声。あるはずもないコーラスにボブ・ディランの歌は遮られ、軽快にリズムを刻んでいたはずの僕の手は、もう叩くことのない膝を強く掴んでいた。

 

あとがき

 

 

バンドが解散した後は高卒・未経験OKというブラック丸出しのインターネット広告代理店に飛び込んで営業やら企画やら制作やらで月400時間労働。バンドで作った借金を完済したら、自分で会社やった方が儲かるんじゃね?と安易に起業して失敗。

 

つなぎの会社に勤めながら副業に着手するも、趣味でずっと続けてた書き物の仕事に本腰入れたらあれよあれよ。バンド辞めたあとにうっすら掲げた「やりたいことで飯を食う」というテーマは失うものも多くありましたが、7年越しに何とか叶えることができました。

 

満ち足りた生活にも飽きてきた頃、何やろうか考えたらバンドしか思いつかなくて。不思議だったんですよ。当時はライブどころかドラムを叩くことや音楽を聴くのも嫌で、バンドやってた意味さえずっとわからなかったのに。

 

でも10年ぶりにドラム叩いたら「あ、完全にこれ好きだわ」って素直に思いまして。そうしたら当時の出来事が鮮明に蘇ってきて、小説的なの作ってみたかったし練習がてらちょっとやってみようかと書き始めたのがバンドマンシリーズだったりします。

 

好きなことやるって聞こえはいいけども満足することがないから慢性的に辛いんですよね。当時は好きなことやれてるなら毎日が幸せで、もっと楽なもんだと思ってました。

 

でも現実は進めば進むほど道が険しくなってきて、報われるのなんかほんの一瞬あるかないか。そこに経済活動が加わったらもう大変ですよ。この焦燥感に正気を保てる人は本当に尊敬します。

 

擦り減っていくのは少なからず持っていた自信で。自信が枯渇すると他者に求めるようになるんですよ。気持ち悪いでしょう。自分勝手でしょう。身内へ仲間へファンへ。その狂気がお客さんにウケたりするから複雑なんだけど、僕の場合はこうして人間関係を壊していってしまいました。

 

好きは主観、得意は俯瞰。というのは僕の持論なんですけども、芸術を仕事として成り立たせるなら俯瞰することも大事。それだけの能力が僕らにはなかったというのが、この悲劇とも喜劇ともいえる話の正体なのかな、とロジカルに整理してみたりしてます。

 

僕がバンドマンの経験を通じて学んだのはきっとそういう焦燥感への対応みたいなところで。この後に飛び込んだビジネス冥界もまた地獄だったわけですが、おかげで何とか上手くやることができました…

 

今ではきっかけを与えてくれたたまじさんをはじめメンバーに感謝していますし、色んな人に迷惑をかけたけどかけがえのない時間だったと思い出の美化にも成功。ちなみに裕子さんとは別れてから今に至るまで毎年誕生日のメッセージやりとりが続いてます。

 

彼女は数年前に結婚して一児の母となり、嫁いだ先の焼き鳥屋では女将さんとして元気にやっているみたい。メンバーも裕子さんも、もう会うことはないかもしれないけど大切に想ってる友人です。

 

最近よくスタジオに入って「あ〜でもないこ〜でもないと」夜中に一人でドラムをこねくり回してるんですが、現役時代からどこかに消えた筋肉と削げ落ちた体力すら愛おしく思えるほど、もう楽しくて仕方がない。

 

同期だった友達のバンドはもう背中も見えないくらい遠いところに行ってしまったけど。笑われてもいいから僕なりに0からまたバンドマンやってみようと思ってます。

 

「好きなら好きでいいじゃない」

 

たぶんこれが一連の出来事に関して僕が出した結論みたいなもので。そんな単純なことに気づくのに16年もかかっちゃいました。

 

皆さんも、好きなことはありますか?

 

僕はバンド好きですよ。