世捨て人の暮らしぶり

自営業でコピーライターやってるよ。東京と神奈川と静岡に住んでるよ。ドラムを叩くよ。面白そうな書き仕事なら世界中どこでも行くよ。Twitterは(@mush_me)、Instagramは(chappy__0927)、その他の連絡は→shotasato4@gmail.com だ!

バンドマンと焦燥感

バンドマンシリーズ10回目。年収300万に対して破滅のボーダーラインは借金150万だそうですが、当時の僕の年収は180万くらいでしたので該当する方、ご安心ください!

 

落ち込んだときは自分より下の人間を見ると安心しますので「僕(私)、落ち込みやすい性格です」という方、日々の常備薬にバンドマンシリーズをどうぞ!

 

1回目

 

2回目

 

3回目

 

4回目

 

5回目

 

6回目

 

7回目

 

8回目

 

9回目

 

 

三軒茶屋から国道246号を進み東京ICから静岡方面へ向かう。24日間連続ライブの1日目は静岡サナッシュ、そこから東海・関西・中国を抜け九州は鹿児島LIVE TRAINまでオフはない。梅雨らしい五月雨は車内の沈黙と相まって僕の鬱屈とした気分を煽った。

 

70本のライブはすべて同じセットリストと決めていた。1曲目はポカンと口を開けて観ているが2曲目から三歩ほど前へ、3曲目には笑顔を覗かせ4曲目からは手振りやアクションが加わり、5・6曲目はタガが外れたように盛り上がって終演。それが僕らと客のライブだった。

 

ステージを降りたらすぐに物販席へ。客の人数によって売上は大きく左右されたが、ライブハウスでの僕らの仕事は案外ルーティンだ。

 

ただ、いくら客が盛り上がろうとも自分たちの演奏が良くなければ僕の気分は最悪だった。しかし、出来が悪いと思っている日に限って物販がよく売れるから面白い。前回のツアーで立てた「演者のエゴなど客はこれっぽっちも欲していない」という個人的な仮説は意外と正しかったのかもしれない。

 

名古屋のイベントはロックンロール界でも有名な老舗バンドの前座ライブだっため、僕らも客を集めた。エウヴィスは尊敬していたバンドとの対バンに興奮気味。楽屋では老舗バンドがどれほどすごいのかを熱弁していたが僕には少しも伝わらなかった。

 

僕らの出番前には舞台袖に老舗バンドのボーカル様がやってきて「お前ら相当ライブやってるらしいが曲ってのはな、千回くらいライブやってはじめて味が出てくるもんなんだよ」と有難いアドバイスをくれた。

 

「新曲やった方が良くないですか?」の一言が喉元まで出かかったところでたまじさんは僕の背中を強く押してステージへ追いやった。老舗バンドのおかげか会場は満員。僕らも大ウケして物販を含めると1日の売上が10万円をゆうに超えた。

 

しかし、大トリの老舗バンドが演奏する頃にはなぜかフロアは閑散としている。当日の動員は老舗バンドのおかげかと思いきやそうではなかったのだ。

 

結局は先輩である老舗バンドが後輩イベンターに無言のプレッシャーをかけ、無理矢理客を呼ばせていたイベントで、そのような事情を知る由もない客は名前すら知らない老舗バンドの登場を待たずに帰ってしまったというわけだ。

 

蓋を開けてみれば僕らの動員20名に対して老舗バンドは5名。人気のないフロアに鳴り響く後輩イベンターのアンコールは客として観ていた僕らをより一層気まずくさせた。

 

関西はイベントが1本しか入らずほとんどがドサ廻りのブッキングライブ。特に平日は客が5~6人という日が大半だった。泉南市にあるライブバーでその日の演奏を終えると、片腕のない老人が「お前にビールを1杯おごらせてくれ」と話しかけたきた。

 

「ありがとうございます」とお礼を言い、乾杯をして話を聞いてみるとその老人は戦後、米軍クラブでジャズを演奏していたドラマーだったそう。そして、不慮の事故によって片腕を失いドラムを辞めざるを得なくなってしまったいう過去を持っていた。

 

帰り際、その老人は僕の目をまっすぐに見つめ笑顔で言った「お前はいいドラマーだよ、まだまだ上手くなる。続けろよ」僕は技術コンプレックスだったが故に誰に褒められても素直に意見を受け取ることができなかった。しかし、その老人の背景からにじみ出た言葉は僕の胸に刺さり、帰りの車内では窓に顔を向け、声を殺して静かに泣いた。

 

10本のライブで40万円を稼いだ東名阪とは打って変わってイベントや客が減る中国地方より西のライブは困難を極めた。動員はあっても1人か2人。会場に客も少ないため売上は良くて10000円が精一杯だ。

 

広島ナミキジャンクションではブッキングが埋まらないせいか珍しく東京からのツアーバンドBoggie Junctionと対バン。モッズスーツに身を包み赤いリッケンバッカーを掻き鳴らす野村良平くんと綺麗なフォームでスマートにドラムを叩いていた田中宏樹くんは年齢こそ20歳そこらだったがその辺の大人と比べても頭一つ抜けていた。

 

ライブでドラムを叩いては演奏を止めていた20歳の頃の僕とは比べようもないほど二人とも優秀なミュージシャンで、その前途有望な未来は同じバンドマンとして嫉妬に値するものだった。

 

山口周南チキータのライブを終えて九州に入ることには疲労困憊。毎日風邪を引いているかのように体中の関節が悲鳴を上げていた。

 

熊本Djangoでは風邪薬を飲んでライブをしたエウヴィスが楽屋で倒れ唇を青紫にして軽い痙攣状態だったため、マッカスが水を飲ませようと近づいたが誤って顔の上にこぼしてしまう。ショック療法だったのだろうか、エウヴィスは水をかけられただけで復活。人間の体は意外と丈夫であることを知った。

 

食事は1日おにぎり3個までに減らしたが170円/ℓまで高騰したガソリンとタイトな長距離移動で使わざるをえない高速道路やフェリー代が資金をジリジリと減らし、九州を終えて大分の佐賀関から四国にフェリーで渡る時点で±0になってしまった。

 

少しだけ増えた知名度と引き換えにすり減っていくのは体重と金。体力と気力も限界を迎えた頃、新居浜Jeandoreで一緒だったのが僕らと同じスケージュールを数年に渡って繰り返しているモンスターバンド、MUSHA×KUSHAだった。

 

百戦錬磨のライブパフォーマンスは圧巻でツアー始まって以来、動員、客の反応、物販すべてにおいて完敗という状況を経験した。救いだったのは「このスケジュールを毎年こなしているバンドが実際に存在しているのだから自分たちなんて大したことはない」と思えたことで、いくらか気が楽になった。

 

以降、四国のライブハウスでは平日にもかかわらず奇跡的にブッキングに恵まれ物販の売上が伸びて資金的に少しだけ盛り返す。高松DIMEでライブを終えた後は翌日がオフということでバンド金庫から一人1000円のボーナスを支給して自由行動とした。

 

何しろメンバーと離れて過ごしたかった僕は一人で市内の製麺所に並んで300円のうどんを食べた後、ブックオフで100円小説を2冊買い、残りの500円で2ℓの水と夕食分のおにぎりを買って公園で本を2回ずつ貪り読んだ。日が暮れて本が読めなくなった頃、ふと裕子のことを思い出し電話をかけてみた。

 

数コールして裕子が出る。「おぉ、すげえ。出た」と僕が言うと「あの〜、おもちゃじゃないんですけど…?」と裕子。彼女は意図しなかっただろうが、久しぶりに聞いたその声は僕に大きな安心感を与えた。

 

東名阪は盛況だったがその資金が尽きたこと、運転中の睡魔に襲われて何度か幻覚を見たこと、片腕の老人ドラマーに褒められたこと。この1ヶ月間の出来事を話した。

 

裕子は「うんうん」としばらく話を聞いてくれた。小一時間は経っただろうか、話がひと段落すると裕子が「帰ってきたらどうするつもりなの?」と聞いてきた。

 

僕は「前にも話したけど帰ったらとりあえず10日間でレコーディングして後半のツアーに出るよ。秋口には今話をもらってるレーベルから1枚出すからその後もたぶん30箇所くらい回るかなぁ」と答えた。

 

「そっか。そんなこと言ってたね。その後は?」と裕子は続けて聞いてきた。僕は「まだ決まってないけどアルバム作るからまたライブ三昧だろうな。レーベルが中国の方にもツテあるみたいだから海外ツアーとか出来たらいいけどね」と答えた。

 

「忙しいねぇ。私はたぶん来年も朝起きて仕事行って帰ってご飯作って食べて寝る。たぶんそれだけ。」と裕子。やりたいことやればいいのにと勧めてみたが「私は普通に暮らすことが幸せなの」と返す。話の流れから彼女が何を言いたいのかくらい察しはついたがあいにく聞く度胸は持ち合わせておらずやや強引に話を逸らして終わらせた。

 

次の日からは兵庫・島根・鳥取・福井・石川・富山・新潟と7日間連続でライブ。秋に発売するCDのレコーディングを行うため1ヶ月半ぶりに東京へと戻った。といっても、休むわけではなく毎日昼間の6時間はレコーディング用の個人練習。夜はバンドでスタジオに入ってアレンジを固めた。

 

この1ヶ月半でこなしたライブは38本。CDやDVD、Tシャツなどの物販は順調に売れてはいたもののツアーの移動と滞在費でわずかに浮いた程度。代わりに全国各地からイベントの誘いが劇的に増え、次回の音源をリリースするレーベルも決まった。

 

端から見れば好調そうに見えていたようだが悲しきかな自分たちにそんな自覚は一切なかった。むしろ少しずつ名前が売れていくたびに「こんなもんじゃだめだ」と増していく焦燥感は厄介の源。

 

それに身を焼かれていった僕たちの口数はおのずと減り、レコーディングの日すら必要最低限の会話しか交わさず。険悪どころか無関心であるかのように、それぞれが黙って録音された音だけに集中していた。

 

ドラムを録り終えて部屋にあったソファーに座って飲みかけのコーヒーを口に含んだ。モニター越しに見るメンバーの表情は全員どこか切羽詰まっていて好きであったはずの楽器を演奏しているにも関わらず、そこに楽しさらしき感情はみじんも感じられない。

 

僕も同じ顔をして演奏していたのかと振り返ると、求められてもいない苦労を勝手に背負い込んで派手に不幸顔している悲劇のヒーローを演じているようで羞恥心が騒いだ。僕は目を閉じてスピーカーから流れる音に耳を傾け、邪念を払いのけようと努めた。

 

レコーディングを終えツアー後半に出発するまでの3日間は完全オフとした。裕子は旅行に行こうと言っていたが、僕はツアーで地方を転々とする生活を理由に挙げ家でじっとしていたいと断った。

 

とはいえ、くつろげるはずの自宅は落ち着かなかった。ツアー中は公園のベンチや寝袋に包まって人気のない道路の縁石で寝る日々を過ごしていたため、柔らかいベッドで寝ていると「ここはどこだ!」と夜中に何度も目を覚ましてしまうからだ。

 

朝起きて朝食を終え、窓をあけてタバコをふかす。天気はどんよりとした曇り。窓からは8月の生暖かく湿った風が流れ込んで肌にまとわりついた。この3日間は何も考えず穏やかに過ごすつもりだったが、僕にとってのそれは難しいものだった。

 

ぼんやりと外を眺めていると現在・過去・未来の嫌なイメージばかりが頭をよぎり、こめかみがジンジンと疼く。視野は次第に狭くなり心臓の奥でちりちりと何かが燃えはじめ、やがてその火種は大きくなり動悸となって僕の呼吸を乱した。

 

「口、空いてるよ…」裕子が半笑いで僕を見ていた。僕は「ん、腹式呼吸だ」とよくわからない答えを返して平静を装った。しかし、結局僕は家でじっとして居ることができずにドラムの練習へ行くことにした。

 

僕が出かける準備をしていると裕子は「なんか最近、苦しむことが目的になってない?」と少しトゲのある口調で話しかけてきた。僕はその一言に苛立ちを押さえきれず「何もやってないお前にわかるわけないだろ!」と声を荒げた。

 

裕子は俯き「練習、頑張ってね」と言い残して家を出て行った。裕子は翌日になって戻ってきたが何事もなかったかのように取り繕おうとする僕らの会話はどこかぎこちなく、身のある話は出来ぬまま時間だけが過ぎ出発の朝を迎えた。

 

本当は感謝の言葉を伝えて出たかったがありがとうの一言にも自信が要ると深読みして僕は口をつぐんだ。それではまずいと喉元から絞り出した言葉は「実家、帰っててもいいんだぞ」の一言。裕子は頷いたようで俯き、だらりと上げた手を振り僕を見送る。弁解をとすぐさま振り返るが話をするだけの時間も勇気も、僕には残っていなかった。

 

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